最後の一台を売らない
月末最終日の午後、蓑輪颯太の店に、三世代の家族がミニバンを買いに来た。
希望色の在庫は最後の一台。今日契約して今月登録すれば値引きが大きい。店長はガラス越しに親指を立てた。
颯太は下取り車の値段を見ながら、後部座席の足元に折り畳み杖があるのを見つけた。祖母は店内では歩いていたが、乗り降りのときだけ娘の肩を借りた。
在庫車はスポーツ仕様で、標準車より床が三センチ高い。カタログの数字では小さい差だが、祖母は展示車から降りる際、最後の一歩で体をひねった。
「これなら広いし、孫も喜ぶ」
祖母は笑った。家族も契約書へ進もうとした。
颯太は納車枠を調べ、同じ色の標準車が来月半ばに入ると伝えた。値引きは今月より少ない。店長の顔が曇る。
「今日決めたいんです」
父親が言った。
颯太は展示場の段差に踏み台を置き、二台の乗り降りを家族全員に試してもらった。スポーツ仕様では祖母の膝が外へ流れ、孫のチャイルドシートを抱えた母親も天井へ肩をぶつけた。
今月登録を優先すれば、営業の成績にはなる。だが毎日の小さな無理は、雨の日に転倒へ変わる。
颯太は雨で濡らした試乗用の踏み台でも乗降を試してもらった。乾いた店内では踏ん張れた祖母の靴が、濡れると半歩滑った。家族の表情から「三センチくらい」という言葉が消えた。
颯太は在庫車を売らず、来月の標準車を押さえた。祖母は契約書より先に、乗降口の高さを手帳へ書いた。納車までの二週間は、下取り予定の車を無償点検して使ってもらう。下取り額は今日の金額で固定した。
「最後の一台なのに」
店長が契約後につぶやいた。
「最後だから、合わない人にも売れるわけではありません」
その夜、在庫車は若い夫婦が試乗し、即決した。颯太の家族客も標準車を契約したため、店全体の数字は結局目標を超えた。
閉店の看板を出したところで、電話が鳴った。
「雪国へ転勤するんですが、四輪駆動なら何でもいいです」
颯太は照明を一列だけ戻し、転勤先の坂道と駐車場の屋根から聞き始めた。