最終列車までの申込書
瀬尾真琴は、駅前のカフェで二枚の書類を見比べていた。
一枚は、介護用品メーカーの内定承諾書。もう一枚は、夜間の製菓学校の入学申込書だった。
転職先は安定している。給料も休日も今より良い。製菓学校は一年半、平日の夜と土曜日が埋まり、学費は貯金の半分を使う。どちらも今日が締切だった。
真琴は菓子職人になりたいわけではない。小さな焼き菓子店を開く夢もない。ただ、仕事の帰りに週一回通っていた教室で、生地の重さを量り、焼き上がりを待つ時間だけは、自分の年齢を忘れられた。
二十九歳で「好きだから学ぶ」は、役に立たなければ贅沢だろうか。転職して忙しくなれば、そんな迷いも消える。消えることを、大人になると呼んでいいのだろうか。
内定先へ入れば、学校の授業開始時刻に間に合わない。学校を選べば、今の契約社員を続けながら学費を払うことになる。
最終列車まで四十分。真琴は友人へ相談するメッセージを打ったが、送らなかった。誰かに「安定を取るべき」と言われても、「夢を選んで」と言われても、従ったふりをして後悔するだけだ。
紙ナプキンの裏に、学費を十八か月で割った額を書いた。外食を二回減らし、更新予定だったスマートフォンを一年延ばす。それでも足りない月はある。好きなことを選ぶとは、好きな気分だけを選ぶことではなく、その不足額を毎月見ることなのだと分かった。
内定承諾書の会社名を指でなぞる。悪い会社ではない。だからこそ、断る理由を大げさに作る必要はなかった。
真琴は人事へ辞退のメールを送り、製菓学校の申込書に署名した。送信直後、給料日と学費の引落日を手帳に書き込む。華やかな決断は、すぐに数字へ戻った。
最終列車に乗ると、窓に疲れた顔が映った。夢を選んだ顔には見えない。正解をつかんだ顔でもない。
真琴は鞄の中で申込書の控えを折らないよう押さえた。これから一年半、眠い夜も、金額に怯える月も、この一枚を選んだ自分が授業へ連れていくのだ。