月末の父
磯部玄は毎朝、コーヒーを淹れながら父の記憶を一つ呼び出す。豆を蒸らす秒数、ネクタイの結び方、上司に怒鳴られた日の帰り道。故人の記憶は月額契約で残せるが、月末に生活上の有用性を審査される。有用と判定された項目だけが翌月へ継続される。それが国の補助条件だった。
父の恭一は口が悪かった。
『残業代の出ない仕事を、責任感って呼ぶな』
『偉い人の機嫌より、自分の睡眠を守れ』
『会社はおまえの葬式で三分しか黙らないぞ』
玄はそれを聞くたび、苦笑して出勤した。父の助言どおりに上司へ意見する勇気はなかったが、朝に一度だけ自分の人生へ戻れる気がした。
今月、玄は昇進候補になった。審査面談の前夜、会社から「故人記憶の健全性確認」への同意を求められた。昇進手続きの一部だと思い、何も読まずに押した。
月末の朝、通知が届いた。
〈継続審査が完了しました〉
〈磯部恭一の記憶二百八十一件中、二百七十六件を終了します〉
玄はコーヒーをこぼした。
終了理由は《就労意欲への負の影響》。会社への警戒、休息の推奨、命令への疑問が、経済活動を阻害すると判定されていた。
残る五件を開く。
銀行口座の暗証番号。実家の権利証の場所。生命保険の証券番号。金庫の開け方。そして、取引先の元役員と父が同級生だったという情報。
どれも昇進に役立つ記憶だった。
玄は異議申立てを押した。受付画面は、残される五件のうち一件が本人確認に使えるか尋ねた。父の人柄を証明する記憶は、すでに有害項目として凍結されていた。
削除まで一分。玄は父の声を片端から再生した。だが同時には開けない。選んだのは、病室で父が最後に言った言葉だった。
『役に立たないことを覚えてろ。それがおまえだ』
三十秒後、その言葉は消えた。
会社から昇進決定の通知が重なった。推薦理由には《有害な家族影響の適切な整理》と書かれていた。
玄は冷めたコーヒーを飲んだ。淹れ方は完璧だった。
なぜこの味が嫌いだったのかだけ、もう思い出せなかった。