未現像の夏
百瀬碧生は、菫館写真室へ一本のフィルムを持ち込んだ。亡くなった父の工具箱から出てきたもので、紙テープに〈旅立ちの夏〉とだけ書かれている。
碧生には、北欧の大学院へ進む話があった。合格通知が来たのは父の葬儀の三日後だ。母を一人にしていいのか分からず、入学延期の申請画面を開いたままにしている。父なら何と言うかを考えるほど、都合のいい答えしか浮かばなかった。
店主はフィルムの端を確かめ、現像袋へ入れた。急ぎ料金の欄を指したが、碧生は首を振った。待つあいだ、店内の古い時計が一時間ごとに一度だけ鳴った。
仕上がったフィルムには、二十数年前の夏が並んでいた。若い母が、大きな鞄を持って駅のホームに立っている。父が撮ったらしく、どの画面にも父自身はいない。母は不安そうに笑い、列車の窓から手を振り、最後の一こまでは小さくなったホームが写っている。
碧生は母が結婚前、半年だけ海外で働いたことを思い出した。父と付き合っていた時期だ。母がそれを「若かったからできた」としか話さなかったので、父は反対していたのだと思っていた。
フィルムの終端に、文字を撮った一こまがあった。駅の掲示板へ貼った紙らしい。
〈帰ってくる場所は、出ていく人のためにある〉
誰の字かは分からない。父の言葉だと決めつけることもできない。それでも、父は母の出発を、一本まるごと使って残していた。
店主はプリントを勧めず、ネガを透明な一本のスリーブへ通した。旅立つ母が、細い帯の上で駅を進んでいく。包装には航路図の柄ではなく、無地の紺紙を選び、紙テープの〈旅立ちの夏〉だけが見える窓を残した。
会計のあと、店主はレコード棚から外国語の歌を選んだ。歌詞は分からない。分からないままでも、曲は最後まで進んだ。
碧生は店の椅子で、延期申請の画面を閉じた。代わりに母へメッセージを送る。
〈予定どおり行く。出発前の一週間は、そっちで過ごしたい〉
返事を待たず、大学院の入学確認にチェックを入れた。
父の答えは、もう聞けない。だからこれは父に許された決断ではなく、碧生が引き受ける決断だった。
鞄の中で、未現像だった夏が、ようやく終点までつながっていた。