本番だけ本物
水無瀬伶奈は、国内で最も「本物の感情」を持つ俳優と呼ばれていた。
演技中の感情をAIが採点する時代、彼女の悲嘆は九十九、恋情は九十七、恐怖は九十八だった。台詞を言う瞬間、脳も心臓も役と同じ反応を示す。観客は、嘘ではない涙を見るために劇場へ来た。
家では違った。
夫の須磨和史が昇進を報告しても、喜び二十八。喧嘩をしても怒り十九。和史が「愛してる」と言ったときの愛情は二十三だった。
伶奈は不安になり、私生活にも台本を持ち込んだ。
〈夫の目を見る。三秒沈黙。頬に触れ、声を一段落とす〉
その通りにすると愛情は八十一まで上がった。和史は初めこそ笑ったが、やがて食卓で台本を探す伶奈を見て言った。
「僕が欲しいのは、高得点の妻じゃない」
「でも、何も感じない私でいいの?」
「何も感じないんじゃない。感じ方が舞台と違うだけだろ」
伶奈には信じられなかった。役の中では、感情には登場の合図があり、頂点があり、幕が下りる。日常の愛情は、洗濯物を畳み、歯磨き粉を買い、相手の寝息に気づく程度で、機械が拾うには静かすぎた。
和史は家を出る前、白紙の台本を一冊置いた。
最後の公演で、伶奈は大切な人を失う場面に立った。いつもなら一筋の涙が落ち、悲嘆九十九が客席へ表示される。
その夜、彼女は台詞を言わなかった。
白紙の台本、空いた椅子、買い忘れた歯磨き粉を思った。涙は出なかった。ただ、舞台の中央で長く息をした。
AIは〈感情分類不能〉と表示した。客席は戸惑い、やがて誰かが静かに拍手した。翌朝の批評は「歴史的失敗」と「最も正直な沈黙」に割れ、伶奈の感情が本物かどうかを論じ続けた。
伶奈はその公演を最後に、しばらく休業した。休業会見では涙を求められたが、彼女は「分かりません」とだけ答えた。その二文字の得点は、四だった。
和史の部屋を訪ねたとき、用意した台詞はなかった。
「戻ってほしい」とも言えず、玄関で立っていた。和史は点数を確かめず、扉を広く開けた。
二人のその後は、どこにも上映されなかった。