朱漆の檳榔箱
雨季の川は、城壁より高い音を立てていた。
ヴィサル・チャンは交換舟の上で、朱漆の檳榔箱を受け取った。敵が捕らえていた水門技師ナリーの持ち物だという。こちらが返す敵王の弟ソムラットは、舟首で縄を掛けられている。
箱を開けると、檳榔の実、石灰壺、胡椒の葉が四枚。葉は三枚が先端を内へ、最後の一枚だけが外へ向けて折られていた。
ナリーは対岸の舟に座り、顔を伏せている。敵兵の手が肩に置かれていた。
ヴィサルと彼女は、水門の合図を葉の折り方で覚えていた。内向きは閉、外向きは開。四枚目だけ外なら「第四水門を開け」。だが第四水門は昨夜から敵の陣船が張りついている。開けば船を城内へ招く。
敵に命じられた偽の合図か。
ヴィサルは石灰壺を持ち上げた。底に細い爪傷が二本ある。ナリーが急ぐ時だけ付ける印だ。強制された合図ではない。
第四水門を開けば、川上の濁流が外堀へ流れ込む。通常なら敵船も一緒に入る。だが今夜の水位では、門前の石梁に帆柱がつかえる。舟だけが横倒しになり、川道を塞ぐ。
ナリーは敵陣でそれを見たのだ。
「箱の中身を食え」と敵使が言った。「交換前の毒見だ」
「檳榔は戦の前に噛まない」
「怖いのか」
「歯が赤くなる。敵に笑っていると思われる」
ヴィサルは箱を閉じた。合図を読んだと悟らせてはいけない。敵が第四水門から船を退かせれば、ナリーの命懸けの知らせが無駄になる。
二艘の舟が縄で引き寄せられた。中央で船縁が触れる。
ソムラットの縄を切る。敵兵もナリーの縄を切る。二人が板を渡って入れ替わる。ナリーはヴィサルの舟へ乗る瞬間、檳榔箱を一度だけ見た。
ヴィサルは蓋を開け、葉を一枚口へ入れた。外向きに折られた四枚目ではなく、何も示さない一枚目だった。
敵使が笑う。合図に気づかなかったと思ったのだ。
舟が離れ始める。ソムラットは敵側へ渡りきり、ナリーはこちらの漕ぎ手の後ろへ伏せた。
対岸の陣船から角笛が鳴る。交換後すぐ城へ寄せるつもりだ。帆が上がり、四艘が第四水門へ船首を向けた。
ヴィサルは胡椒の葉を噛み潰した。苦味と石灰が舌を焼く。
ナリーが低く言う。
「梁まで、指二本です」
「足りる」
城壁の上で、朱い信号旗が待っている。
ヴィサルは檳榔箱を高く掲げた。
「第四水門を開けろ」
巨大な扉が持ち上がり、濁流が敵船へ牙を剥いた。