杉の木に結ばない糸
恋人の両親へ挨拶に行く前日、私は故郷の神社へ寄った。高校への通学路から少し外れた境内には、願い糸を結ぶ大杉がある。幹の低いところに残る浅い傷へ触れると、聖良の震える指がよみがえった。
高校三年の夏、聖良と私は赤い糸を一本ずつ結んだ。願いごとは口にしない決まりだったのに、帰り道で彼女は言った。
「卒業しても、友達じゃない形で隣にいたい」
私は意味が分からないふりをした。分かっていた。怖かったのは彼女の気持ちではなく、それを受け止めたら、自分の中にも同じ色があると認めなければならないことだった。
翌朝、私は早く神社へ行き、二本の糸を鋏で切った。聖良には「誰かのいたずらみたい」と嘘をついた。彼女は私を見つめ、静かに「そっか」とだけ言った。それから卒業まで、私たちは必要なことしか話さなかった。
大学で初めて女性を好きになったとき、聖良の告白が戻った。謝りたくても、彼女の現在を乱す資格がない気がして連絡できなかった。私は長いあいだ、恋をするたびに大杉の前で糸を切る自分を思い出した。
境内の授与所で、白い願い糸を一本買う。赤ではないのは、過去を結び直すためではないからだ。私は糸を大杉へ結ばず、手首に巻いた。
明日会う恋人の両親が、私たちを受け入れてくれるかは分からない。説明の途中で声が震えるかもしれない。それでも、誰かの前で自分を消すことはもうしない。
スマートフォンを取り出し、聖良へ送れずにいた文章を開く。謝罪だけを書き、返事は求めないと添えて送信した。すぐに画面を伏せる。
大杉から風で落ちた葉が肩に触れた。傷は幹の一部になり、塞がりきらないまま木を太くしていた。
手首の白い糸は頼りなく、少し汗を吸っていた。願いが叶う印ではなく、怖いまま名乗る自分を見失わないための目印で十分だった。
私は白い糸を袖の下へ隠さず、神社の石段を下りる。明日は恋人の手を離さない。十七歳の私が切ったものを元通りにはできなくても、これから結ぶものを自分で選ぶことはできる。