枕を反対に置く
栗原澄礼は、目覚ましより先に仕事の通知で起きることが多かった。枕の右には充電器、正面には小さな机。目を開ければ画面があり、未読の数字を消してからでないと布団を出られない。直属の上司は早朝に思いついたことを送る人で、返信が遅いと「寝てた?」と冗談を言った。澄礼は笑って応じ、枕元に充電器を置いた。夜中に目が覚めても画面を確認し、何も来ていなければ安心し、来ていれば眠気を忘れた。朝は始まる前から、誰かの続きになっていた。広報の仕事では朝の反応が早いほど評価され、澄礼は休日にも通知音を変えなかった。返信が遅れて問題になったことは一度もない。それでも一度そうなれば、今までの信頼まで消えるような気がした。
空調設備の交換で十四日だけ移った部屋には、熊代慧という建築士がいた。慧は家具の位置を毎晩少しずつ変えた。図面を引く前に、部屋を別の向きから見る練習だという。澄礼の荷物には触れないが、「ここからだと窓が大きい」と独り言のように言い、同じ六畳にいくつもの入口を作った。椅子を窓際へ、机を壁から十センチ離し、昨日まで横だったラグを斜めにする。
澄礼が「落ち着かなくないですか」と訊くと、慧はベッドの足元へ座った。
「朝いちばんに会いたいの、画面?」
「仕事なので仕方ないです」
慧は答えず、澄礼の枕を持ち上げた。
「今夜だけ、こっちに置いてみて。頭と足を逆にする」
「寝にくそう」
「戻すのは明日の朝でいいよ」
澄礼は枕を取り返したが、寝る前になると質問だけが残った。いつもの向きなら、充電中の画面が暗闇でも見える。足元へ頭を移すだけで、その正しさまで手放すように感じた。画面に会いたいわけではない。けれど先に見なければ、自分だけ遅れる気がする。
足元へ枕を置くと、視界の正面が窓になった。カーテンの隙間には、隣のビルの赤い航空灯が見える。いつもの壁より明るく、眠りにくかった。それでもスマートフォンは頭の後ろにある。
翌朝、振動音が遠くで鳴った。澄礼は反射的に身体を起こし、手を伸ばしかけた。けれど目の前のカーテンが、朝の光で薄い水色になっていた。机の向こうではなく窓の側から始まる朝を、澄礼は初めて見た気がした。
未読は消えない。空も逃げない。どちらを先に見るかだけは、自分で決められる。
澄礼はベッドを降り、スマートフォンを取る前に、カーテンを左右へ開いた。