森の薬棚は眠らない
薬師寺琴葉の前職は、王都施療院の薬草管理係だった。
緑の制服は薬液で色が抜け、腰紐には夜勤札が何枚も結ばれたままだった。百人分の煎じ薬を一人で揃え、棚卸しの誤差が一葉でも出れば朝まで探した。退職後の未読欄には「急患」「在庫不明」「管理簿を教えろ」。後任を置かなかった責任まで、琴葉へ届けられていた。
森の古家で開いた無限収納は、薬草を摘んだ瞬間の状態で保存した。さらに、名前と用量を登録すれば、契約した施療所の小箱へ必要量だけ自動で送れる。
琴葉は森の採取人から余った薬草を買い、村々の診療所へ《薬棚の鍵》を貸した。診療所が使った分だけ代金が分配され、採取人にも琴葉にも小さな手数料が入る。夜中に急患が出ても、彼女が起きて瓶を探す必要はない。
窓辺で乾燥花を束ねていると、木札が一度だけ鳴った。
《薬棚利用料:入金》
《今月の必要支出を満たしました》
金額より、その後に何も求められない静けさが嬉しかった。通知は入金だけを告げ、「ついでに棚を直せ」とも「今夜は残れ」とも言わない。琴葉は木札を伏せ、乾燥花の結び目を最後まで急がず整えた。急がなくても、誰の命も取りこぼさない。薬棚の前で医師が一礼した記録が届いたが、琴葉は返礼のために家を出る必要もなかった。
同じ木札へ、元院長から赤い通信が重なる。
「王都で流行病の疑いだ。至急戻れ。保管庫を扱えるのはお前だけだ」
琴葉は、胸に残っていた古い罪悪感が動くのを感じた。患者を見捨てるのか、と責める声はまだ自分の中にもある。
けれど、彼女は村の薬棚を見た。自分が眠っていても薬は届く。必要なのは、誰か一人を削り続ける献身ではなく、削らなくても回る仕組みだった。
「収納の使用契約書を送ります。私は戻りません」
「医療者の良心はないのか」
「良心を理由に休ませない職場へは、ありません」
通信を閉じ、緊急通知の権限を外す。琴葉は薬草籠ではなく、読みかけの詩集を持って庭へ出た。木陰に敷物を広げ、午後の頁をゆっくりめくった。