樽番号のない酒
限定ウイスキーの抽選販売会で、深川森昂理は、鳴海原貴史が三十枚の当選通知を持っているのを見た。
名義はすべて違う。だが受取人の顔写真は同じだった。
「法人の贈答用です」
貴史は高級車の鍵を見せ、店員へまとめて渡すよう要求した。すでに海外サイトでは、発売価格の十倍で三十本を販売済みと表示されている。
蒸留所の担当者が、一枚ずつ本人確認を始めた。
当選応募には、一世帯一口、身分証と会員登録の一致が条件だった。法人贈答枠は別審査で、貴史は一件も申請していなかった。貴史は知人から借りた住所と、画像加工した本人確認書類を使っていた。三十件の顔認証ログには、同じ背景と同じ照明が残っている。うち一名は会員証の紛失を届けており、貴史とは面識がないと蒸留所へ回答した。
「抽選に当たった事実は変わらない」
貴史は通知を机へ叩きつけた。
昂理は蒸留所の品質管理担当として、受取会場を手伝っていた。彼女は出品画面を拡大した。
写真に写る瓶には、樽番号の刻印がない。
今回の限定品は、受取時に本人名と樽番号をレーザー刻印して完成する。貴史が掲載した写真は、通常品へ偽ラベルを貼ったものだった。
海外の購入者へは“現物確保済み”と説明し、前金を受け取っている。
蒸留所の法務担当は当選三十件を無効にし、偽造書類と商標の不正使用を警察へ相談すると告げた。借用された会員証の名義人も、被害届を検討すると連絡してきた。通販サイトも出品を削除し、前金を返金。決済会社は貴史の口座を調査対象にした。
高級車も、実はレンタカーだった。返却時刻が迫り、駐車場会社から延長料金の通知が鳴る。
蒸留所は三十本を再抽選へ回した。昂理がボタンを押すと、正規応募者の端末へ当選通知が届いていく。
最初の一本へ、新しい当選者の名と樽番号が刻まれた。
貴史が抱えていた三十枚の通知がすべて〈無効〉へ変わり、樽番号のない出品写真だけが証拠として残った瞬間、限定酒を買い占めたはずの男は偽物しか売っていなかったことになった。