欠けても残る名字

薄井ひかりは喫茶「穂波」で、結婚後のプロフィール文を確認していた。

検索欄へ旧姓を入れれば、地方の食堂を取材した記事も、初めて署名をもらった連載も続けて出てくる。新しい名字では何も見つからない。その空白を、新生活らしい清潔さだとは思えなかった。

結婚を迷っているのではない。好きな人と暮らすことと、書いてきた名前を手放すことが、なぜ同じ決定になるのかわからなかった。

来月入籍する相手は、仕事で旧姓を使うことに反対しているわけではない。ただ、相手の母から「家族になるのだから、表に出る名前も揃えたら」と言われて以来、話題にするたび空気が重くなった。

ひかりは料理記事を書いている。大きな仕事ではないが、五年かけて薄井ひかりという署名を積み重ねてきた。編集部からは、次号から名義を変えるか今日中に知らせてほしいと言われていた。

店主が出したカップは、縁の一か所が小さく欠けていた。欠けは滑らかに研がれ、口をつける場所から外されている。側面の店名はほとんど消えていたが、底の窯印だけは濃く残っていた。

ひかりがカップを回すと、店主はそっと持ち手を戻した。欠けた部分を奥へ隠すためではない。飲み口の安全な位置が正面に来るよう、長年決まった角度へ直したのだ。

形が少し変わっても、使い方は失われていない。底の印も、誰かに見せるためではないのに残っている。

ひかりはプロフィール文の新しい名字を見つめた。間違いではない。けれど、自分が書いた五年分の記事から、急に別の人が続けるように見えた。

会計で店主が領収書の宛名を尋ねた。

ひかりは一拍だけ黙り、「薄井ひかり」と答えた。店主は平仮名まで確認し、以前のポイント台帳と同じ欄へ今日の日付を足した。名字が変わる予定を知らない、ただの記録だった。

ひかりは編集部へ返信した。

〈執筆名は今後も薄井ひかりで統一します〉

続けて婚約者にも、同じ一文を送った。説得の長文はつけなかった。

店主はカップを洗い、欠けの位置を指で確かめてから棚へ戻した。ひかりは自分の名字が残る画面を閉じずに、店を出た。