欠航しない待合室

 津守野玲生は、旅をしない日にもフェリーターミナルへ行く。

 港に面した待合室は、切符がなくても入れる。大きな窓、青い椅子、船内放送の練習のような案内音。

 玲生は窓際へ座り、出ていく船と戻ってくる船を眺めた。

 会社を辞めてから、家にいる時間が増えた。

 再就職を急ぐ気はないが、平日の昼に自宅へいると、町全体から置いていかれたように感じる。

 ターミナルなら、座っている人にはそれぞれ出発か到着の理由がある。玲生にも何かを待っている顔ができた。

 売店の女性は、玲生が切符を買わないことを知っている。

「今日はどこまで?」

「窓際まで」

「往復?」

「夕方に帰ります」

 毎回同じ冗談のあと、玲生は貝入りのスープを買った。

 紙カップから、磯と胡椒の香りが立つ。

 船が着くと、待合室へ人が流れ込む。大きな鞄、眠そうな子ども、花束を持つ人。

 玲生は誰の迎えでもない。それでも扉が開くたび、海の冷たい風を一緒に受けた。

 ある日、隣へ小さな男の子が座った。

 祖父を迎えに来たが、船が二十分遅れているという。

「船、迷子?」

「海に道がないから、ゆっくり来る」

「でも地図あるよ」

「船の人の方が詳しいね」

 男の子は納得せず、窓へ額をつけた。

 船が現れると、彼は立ち上がり、何度も手を振った。

 玲生もつられて窓の外を見る。

 白い船がゆっくり向きを変え、岸へ近づく。

 接岸した瞬間、待合室の空気が少し動いた。

「おじいちゃん来た!」

 男の子は走っていった。

 玲生は残ったスープを飲む。底の貝は小さく、匙ですくうのが難しかった。

 売店の女性が空の隣席を見て言った。

「迎え、無事でしたね」

「私が?」

「一緒に待ってたでしょう」

 玲生は笑った。

 自分はどこにも出発せず、誰も迎えない。それでも待合室では、知らない誰かの到着を少し喜べる。

 家へ帰る夕方、コートには海風と貝スープの香りが残った。

 翌週も窓際へ座る。

「今日こそ乗ります?」

「今日は欠航しない待合室へ」

 船が出ても、待合室はなくならない。玲生にとってここは、出発しない日にも世界とつながっていられる港だった。