止んでも帰らない
「雨が止むまで、ここにいる」
植松沙月は、閉まったパン屋の庇へ駆け込みながら言った。
立石央士は相合傘の水滴を払い、腕時計を見る。沙月が母親に勧められた相手と会うまで、あと二十分。店は通りの向こうに見えていた。
央士とは六年来の友人だった。仕事を辞めたい夜も、引っ越しで家具を組み立てる日も、最初に呼ぶのは彼。央士の誕生日を祝うのも、家族以外ではいつも沙月が最初だった。それでも二人の関係には名前がつかず、沙月は「待っているだけでは何も変わらない」と言われ、今日の食事を受けた。
雨脚は弱まらない。パン屋の看板から落ちる雫が、二人の靴先の間を何度も打った。
「遅れるって連絡したほうがいい」
「央士は、行ってほしい?」
「俺が決めることじゃない」
正しい答えだった。だから余計に、沙月は傘の外へ出られなかった。
央士の左袖は、ここまで歩くあいだにすっかり濡れていた。いつも自分の側へ傘を寄せる。いつも必要なときに来る。それなのに、彼は一度も沙月の選択を奪わない。
スマホに《もうすぐ到着します》と相手から届く。
沙月はしばらく画面を見てから、《申し訳ありません。今日は伺いません》と打った。母親にも、自分で断ると送る。
送信後、央士の傘を持つ手へ自分の手を重ねた。
「帰ろう」
「家に?」
沙月は首を振り、二人で保存していた地図を開く。いつか行こうと言ったままの夜カフェを選び、今夜の席を二名で予約した。さらに翌週の土曜にも、同じ相手を予定へ入れる。
「今日は央士と行く。来週も」
央士は何も言わず、庇から一歩出た。沙月の手は傘の柄から滑り、その指へ絡んだ。彼は驚いたが、離さなかった。
通りを半分渡ったところで、雨が急に細くなる。
「もう止みそうだよ」
央士が言う。
沙月はつないだ手を握り直し、店とは反対の道へ彼を引いた。
「雨が止むまで、ここにいるって言っただけ」
「じゃあ、止んだら?」
「止んでも帰らない。今日は、友達の付き添いじゃないから」
庇の下で時間をつぶすための言葉は、雨上がりに初めて、二人で次へ行く約束へ変わった。