歩いて届く薬

四月一日由良は、一日に百歩も歩かなかった。床が移動し、椅子が迎えに来て、品物は手元へ届く。脚は立つためではなく、服を着せるために残っていると冗談を言っていた。

父から発作の通知が来た夜、配送網が暴風で止まった。必要な薬は由良の家にあり、父の住居までは三・二キロ。再開予測は十一時間後、医療AIが示した猶予は四時間だった。

「徒歩搬送は推奨されません」

「他に方法は?」

「待機してください」

父とは半年会っていなかった。映像通話なら毎週していたし、健康状態も共有されている。会いに行かなくても互いを把握できると思っていた。だが薬箱を握ると、父の家までの距離が、数字ではなく自分の怠けた時間に見えた。

由良は靴を履いた。紐の結び方を端末で調べるところから始めた。

百メートルで息が切れた。五百メートルで膝が震えた。動く歩道の止まった街では、同じように立ち尽くす人々がいた。誰も彼女を運べない。皆、自分の体重を支えるだけで精いっぱいだった。

足裏にはすぐ水ぶくれができた。風は体を押し戻し、雨粒は映像より痛かった。父から《無理をするな》と文字が届いた。続いて《でも来てくれたら嬉しい》と届き、由良はその矛盾を握りしめた。最適な指示より、父の勝手な願いのほうが脚を動かした。

一キロ地点で転び、薬箱が道路を滑った。拾ってくれた老人は、昔の配達員だったという。

「遠くを見ない。次の街灯まで行け」

由良は街灯を一つずつ数えた。吐き、泣き、何度も座り込んだ。父の部屋へ着いたとき、残り時間は十九分だった。

薬は間に合った。目を覚ました父は、娘の腫れた足を見て笑った。

「お前、歩けたんだな」

「私も知らなかった」

治療後、父は近居を勧めるAI提案を断った。由良もすぐには引っ越さなかった。距離を消すことより、距離を越えて会いに行く日を作りたかった。二人は週に一度、中間の公園まで歩く約束をした。最初は互いに遅刻した。

翌月、配送網は完全強化された。二度と歩く必要はないと宣伝された。

それでも由良は毎朝、薬の入っていない鞄を持って街へ出た。やがて近所の人が、手紙や花を託すようになった。急ぐ物ではない。届かなくても生命には関わらない。

由良は一つ先の街灯を見た。

必要がなくなったあとも歩くことが、ようやく自分の人生を運んでいる気がした。