母の紺色の浴衣

介護施設の夏祭りに持っていく荷物を整えながら、瑞希は紺色の浴衣を広げた。

白い朝顔の柄。帯の内側には、母の旧姓が小さく縫い取られている。

高校三年の夏、瑞希はその浴衣を着るのが嫌だった。友達は新しい柄を買ってもらっているのに、自分だけ母のお下がり。しかも両親は離婚したばかりで、母は仕事を二つ掛け持ちし、祭りへ一緒に来る余裕もなかった。

「古くさい」と瑞希が言うと、母は一度だけ手を止めた。

「そうね。でも、よく似合うと思う」

帯を結ぶ母の指は、疲れのせいか少し震えていた。瑞希は鏡越しにそれを見ながら、気づかないふりをした。

祭りでは、好きだった同級生に浴衣を褒められた。それでも嬉しいと言えなかった。母に借りたものだと知られたくなくて、「適当に買った」と嘘をついた。

帰宅すると、母は居間の明かりをつけたまま眠っていた。食卓には、冷めた枝豆と〈楽しかった?〉と書かれた付箋があった。

瑞希は返事を書かなかった。浴衣を脱ぎ、乱暴に畳んだ。翌朝、母は何も言わず、皺を伸ばしてしまった。

それから九年。母は若年性認知症を発症し、瑞希の名前が出てこない日が増えた。過去のことを謝っても、母は「そんなことあった?」と笑う。許されたようで、許してもらう機会を失ったようでもあった。

施設の部屋で、瑞希が浴衣に着替えると、母はしばらく黙って見つめた。

「きれいね」

「これ、お母さんのだよ」

母は首を傾げ、帯の朝顔を指でなぞった。

「じゃあ、あなたにあげる」

太鼓の音が庭から聞こえる。瑞希は泣きそうになったが、「ありがとう」とだけ答えた。昔の母に届く言葉を探すのはやめた。今ここにいる母へ渡せる言葉を選びたかった。

二人で屋台へ向かう途中、母が瑞希の帯を直した。震える指で、ほんの少しだけ。

「似合うわね」

今度は瑞希も、気づかないふりをしなかった。

「うん。私もそう思う」

紺色の裾を踏まないように歩幅を合わせる。取り戻せない夏を謝り続けるのではなく、忘れていく母と、新しい一夜を覚えるために。