毒杯の底に主はいない
宮廷の宴で、聖女ラティアは必ず王より先に杯を飲んだ。
舌の裏に刻まれた紫の呪印が毒を吸い取り、代わりに彼女の体へ蓄える。所有者である宰相が銀杯を鳴らせば、どれほど苦しくても飲まずにはいられない。
新任の宮廷料理長サイラスは、その作法を見て一度だけ眉をひそめた。
戴冠記念の晩、宰相は王へ毒を盛った。王が倒れれば幼い王子を操れる。だが毒見役の聖女がすべて引き受けるため、証拠も残らない。
銀杯が鳴る。
ラティアの手が勝手に伸びた。
サイラスは配膳台から杯をさらい、自分の前へ置いた。
「料理長、何をする!」
「この杯は厨房の備品です。欠けを見つけましたので下げます」
「飲ませろ!」
宰相がもう一度、銀杯の縁を鳴らす。呪印が紫に光り、ラティアが喉を押さえた。
サイラスは杯を床へ投げなかった。柄の長い包丁を取り、杯の底に刻まれた所有紋だけを削り始めた。
金属音が三度響く。
紋が欠けるたび、ラティアの舌から紫の線が薄くなる。
「やめろ! その女の毒消しが失われれば、王が危険になる!」
「王を守る方法が、人を毒壺にすることだけなら、料理人のほうがましです」
最後の一削りで所有紋が消えた。
銀杯は真っ二つに割れ、ラティアの呪印から黒い雫が落ちる。彼女は初めて、差し出された水を自分の意思で飲んだ。
サイラスは残った料理と杯を封印し、近衛へ渡した。毒の出所はすぐに宰相の薬庫へつながるだろう。
「厨房の裏口が開いています」と彼はラティアへ告げた。「ここから出れば、追う者はいません」
「私の体には、これまでの毒が」
「解毒薬を三日分用意した。その後は好きな町で暮らせる」
彼女は薬袋を受け取り、静かに去った。
翌朝、サイラスは宰相派の残党に囲まれた。厨房の扉を蹴破られ、包丁一本で立つ。
最初の刺客が踏み込んだ瞬間、白い光がその刃を弾いた。
裏口からラティアが戻ってきた。紫の痕は消え、手には銀杯ではなく、自分で選んだ細身の剣がある。
「薬は三日分だったはずだ」
「一日分で効きました。残りは旅費に換えました」
「自由を買ったのに、なぜ戻る」
「自由になったから、守る相手も選べます」
ラティアは剣の柄をサイラスへ向けた。
「この剣を預けます。命令では抜きません。あなたが誰かを毒壺にしない限り、私はあなたの食卓を守ります」
床には、二度と鳴らない銀杯が、ただの欠片になって転がっていた。