水槽いっぱいの酸素
戸倉は酸素ボンベを素通りし、青い水槽へ両腕を回した。
青砥が赤い二百リットルボンベを、柊木が大型の四百リットルボンベを確保する。水槽にはただ《水 二十五リットル》とあるだけだった。
「泳いで生き残るゲームじゃないぞ」
柊木が嘲る。
壁の規則は、呼吸について一言も触れていない。
《選んだ容器に含まれる酸素原子の総質量が最も大きい参加者を勝者とする》
判定は質量分析器が行う。三人は容器を台へ置くだけでよく、選択後の交換は禁止だった。
青砥と柊木は《酸素》という文字に引かれた。片方は純酸素二百リットル、もう片方は四百リットル。数字の大小だけなら柊木の勝ちだ。対する戸倉の水槽には、泡すらほとんどない。
しかし戸倉は水面を指で叩いた。
「水はH2Oだ」
二十五リットルの水は、およそ二十五キログラム。その大部分の質量を占めるのは酸素原子である。圧縮された気体酸素が数百リットルあっても、常圧換算なら質量はせいぜい一キログラムに届かない。
分析台が順番に光る。
《青砥、酸素原子二百八十六グラム》
《柊木、酸素原子五百七十二グラム》
最後に水槽の下が青く点灯した。
《戸倉、酸素原子二十二・二キログラム》
柊木の口が開いたまま止まる。
「それは酸素じゃなく、水だ」
「物質名は水。でも規則が数えるのは、容器内の酸素原子だ」
主催者は参加者が呼吸用酸素を奪い合う姿を期待し、わざわざ化学式まで書いた。だが恐怖の中では、人は日常語の《酸素》だけを読み、定義の後半を捨てる。
《勝者、戸倉》
水槽の側面には、子どもの理科教材のように《H=1、O=16》と原子量が印刷されていた。青砥は装飾だと思い、柊木は容量表示しか読まなかった。戸倉は二十五に十六分の十八を掛けるだけで、ボンベ二本を足しても届かないと選択前に分かっていた。
勝負は容量札を取った時ではなく、化学式を読み終えた時に決まっていた。
水槽側の出口が開く。戸倉は一滴も飲まず、二十二キロの酸素を背に残して歩き出した。