水面が三センチ低い
水泳選手の鵜久森颯斗が、施錠された屋内プールから消えた。
代表選考前夜、鵜久森は秘密練習をすると言って午後九時にプール棟へ入った。入口は一つで、コーチの針生克臣が廊下に残った。ライバルの壬生川杏里は観客席、施設管理の十河嵩文は機械室にいた。窓は高く、天井の採光板も内側から届かない。
九時二十分、針生が扉を開けると、照明の下に波だけが残っていた。鵜久森のタオルとサンダルはスタート台の横にある。水中を調べても誰もおらず、排水口は直径十五センチの格子で塞がれていた。
事故かと騒ぐ三人を止め、私はプールの縁に膝をついた。見るべき点は三つだった。
水面は静まっていたが、塩素の匂いだけが濃かった。針生は泳げない者には不可能だと言い、壬生川は鵜久森なら息を二分止められると反論した。問題は潜れるかではない。水中のどこに、人間の肩幅を許す空間があるかだった。
第一に、水面が通常の越流縁より三センチ低かった。ポンプは正常で、短時間に水位を下げる操作が行われたことになる。
第二に、北側の越流溝だけ、格子の二本のねじが逆向きに差され、金属に新しい擦り傷があった。
第三に、建設当時の図面には、その溝から地下の平衡水槽へ続く直径六十センチの旧式水路と、水槽から機械室へ上がる点検梯子が描かれていた。
壬生川が水路をのぞき、「ここを泳いだの?」と呟いた。
「水位を三センチ落とせば越流が止まり、流れに逆らわず格子を外せる。鵜久森さんは水路を通って平衡水槽へ出た。十河さんが機械室側の蓋を開けたのでしょう」
十河は観念し、操作鍵を差し出した。鵜久森は違法な薬物投与を強いるコーチから逃れ、選考委員へ証拠を届けるために消失を演じたという。
低い水面、付け直した格子、古い図面。どれも同じ水路を示している。
私は静まったプールを見渡した。
「密室の壁は破られていません。最初から水の下に、六十センチの扉が横倒しで開いていたんです」