洗わない絵

薬袋鈴は、古い絵を洗わなかった。

市立美術館へ寄贈された風景画は、表面が茶色く曇り、空も川も沈んでいた。相楽学芸課長は、開館記念展までに明るく戻せと命じた。

「保存修復士が汚れを怖がってどうする。決断できない人間は無能と同じだ」

鈴は溶剤を当てる前に、赤外線撮影と蛍光検査を求めた。茶色い層はひびの入り方が均一すぎ、古いニスの汚れとは違っていた。絵具の端には、別の筆が止まった盛り上がりもある。

申請は「時間の浪費」と却下された。相楽は寄贈式で『本来の鮮やかさを取り戻した』と発表する段取りまで組んでいた。

寄贈者一族を招いた内覧の前日、相楽は外部業者に洗浄を始めさせようとした。

鈴は絵の前に立った。

「この茶色は汚れではありません。後世の上塗りです」

「証拠は」

鈴は額縁の裏から見つけた小さな欠片を示した。

茶色の層の下に、鮮やかな群青がある。筆致も異なる。欠片は額縁で隠れた部分から自然に剥がれたもので、鈴は採取位置と時刻を二人立会いで記録していた。

相楽は笑った。

「欠片一つで展覧会を止めるのか」

そのとき、館長と画像診断の専門家・久我が入ってきた。

鈴は却下されたあと、作品を動かさない条件で、夜間の携帯型撮影を正式に再申請していた。館長が承認したのだ。

モニターに赤外線画像が映る。

沈んだ風景の下には、まったく別の人物画があった。画面の隅には、長く所在不明だった女性画家の署名まで残っている。

寄贈者が息をのむ。

一族の記録にだけ登場する、戦時中に没収を避けるため、親族が風景画で覆ったと伝わる作品だった。上塗りそのものも、作品が生き延びた証拠になる。

相楽は「上塗りを落とせば予定どおり展示できる」と言った。

久我は首を振る。

「処置順を誤れば、下の絵も上の歴史も失います。最初に洗浄しなかった判断が、作品を救いました」

館長は予定していた洗浄契約をその場で停止し、展示計画書を破棄した。代わりに二層をともに保存する新しい修復指示書を開いた。

最終承認者の欄には、薬袋鈴の署名だけが求められていた。