浅瀬に残った船底
遠峰ヶ谷伊都真の帆船が、港から消えた。
全長八メートルの古いセーリングボート。友人の鬼柳森雄司は、何度も「週末の飲み会に貸して」と頼んでいたが、操船資格も経験もないため断っていた。
昼過ぎ、海上保安部から連絡が入る。
船は沖の浅瀬へ乗り上げ、船底を裂いていた。乗っていたのは雄司と友人七人。酒を飲み、救命胴衣も着けず、音楽を大音量で流していたという。
雄司は港へ戻るなり言った。
「古い船だから座礁したんだ。貸してくれれば先に整備できたのに、こっそり乗るしかなかった」
彼は、伊都真が修理用に預けていたマリーナ倉庫の鍵から、船の始動キーを持ち出していた。
船には航海計器のログが残っていた。
出港時刻、針路、速度、浅瀬警報。警報は五回鳴っていたが、雄司が画面を消音している。友人の配信動画には、「壊れたら伊都真の船体保険で新しくなる」と乾杯する声も入っていた。
船体保険は、所有者の許可を得た有資格者による操船が条件だった。保険会社は無断使用者である雄司へ、救助費、曳航費、油流出防止費用を求償する方針を示した。
船底修理とマスト点検、シーズン中の係留・貸出損害を合わせ、請求は九百万円を超えた。伊都真が毎週自費で続けていた安全点検の記録も、船が事故前まで正常だったことを示した。
雄司は伊都真へ言った。
「友達七人で割れば安い。全員に請求するなんて空気を読めよ。船を俺にくれるなら、残りは自分で直す」
「壊した物をもらえば、賠償しなくていいと思っているの?」
同乗者たちは、雄司からオーナーの許可があると聞かされていた。配信映像で嘘が分かり、それぞれが救助費の一部を負担しつつ、残額は雄司へ求償することになった。
雄司は車と釣り道具を売り、残りを分割で支払う合意へ署名した。マリーナからも永久利用停止を受けた。
修復された船が再び深い航路へ出て、計器画面に〈操船者・遠峰ヶ谷伊都真〉と表示された瞬間、ただで海を借りた男には、浅瀬へ置いてきた船底より深い負債だけが残った。