海猫の鳴く浅蜊汁
長谷部結季は、母の一周忌を終えた翌朝、港の台所へ立った。
窓の外では海猫が鳴き、魚箱を洗う水の音がする。母の佐保は、祭りの朝になると大鍋で浅蜊汁を作った。結季が町を離れてからも「今年は帰る?」と電話をくれたが、最後の年だけは忙しさに負けて断った。
その後、母の味を思い出すたび、浅蜊の旨味より先に、切った電話の無音が蘇った。
結季は砂抜きした浅蜊を鍋へ入れ、酒と昆布を加えた。殻が開くまで煮たが、身は縮み、汁には苦みが出た。
隣家の漁師が、窓から覗いて言った。
「佐保さんは、口が開いた順に出してたよ」
「全部一緒に戻すんじゃないんですか」
「食べる直前にな。待たせすぎると、浅蜊も固くなるって」
二度目、結季は鍋の前を離れなかった。一つ開くたび、箸で椀へ移す。最後の殻が開く頃には、台所が潮と酒の香りで満ちていた。
母は電話でもよく「火を見ながら話しなさい」と言った。結季は面倒がり、料理中の通話を避けていた。今なら、その言葉が急かすためではなく、鍋を焦がさないためだったと分かる。
味噌を溶き、浅蜊を戻し、刻んだ三つ葉を浮かべた。ひと口すすれば、熱い汁の中に海の塩気があり、身はふっくらしていた。母のものより少し薄い。それでも喉を通ると、去年の祭りへ帰れなかった自分を責める声が、少し遠くなった。
「帰らなくて、ごめん」
結季は空の椅子へ言った。
「でも、覚えてるから」
海猫が窓枠へ降り、首を傾けた。結季が殻を洗うと、嘴で硝子をこつりと鳴らす。
鍋には二杯分残っていた。結季は隣家へ一杯届け、もう一杯を昼まで温めておくことにした。
港の風は冷たかったが、袖口には浅蜊と三つ葉の香りが染み、母の返事の代わりのように、いつまでも潮の音と混じっていた。
昼に隣家から戻った椀には、母が好きだった若布が少し入っていた。結季はそれも鍋へ足し、味を見て笑った。再現したかったはずの汁は、もう母だけのものではない。港で渡され、少しずつ具を増やしながら残っていく味なのだと思えた。