海藻スープの拍子

 玖珂見玲央奈は、バレエ団の昇格審査に落ちたあと、海辺の安宿へ向かった。

 審査員から「技術はあるが、体が音を待っていない」と言われた。何年も早く、正確に動くことを覚えてきたのに、待てと言われても分からなかった。

 宿には共同の足湯があった。

 夕方、玲央奈が一人で脚を浸していると、向かいへ年配の女性が座った。海へ潜って海藻を採る仕事をしているという。

「きれいな足ね」

「傷だらけです」

「働いてる足は、だいたいそう」

 女性は桶の中で、採ってきた若布を洗っていた。

 波に揺られた葉が、湯の外でゆっくり広がる。

「海の中では、急ぐと採れないの」

「沈みませんか」

「沈むまで待つ。浮くときも待つ。息が続く分だけ」

 玲央奈は、自分の呼吸を数えながら踊る癖を思い出した。音楽より先に動かないよう、次の拍へ体を押し込んでいた。

 翌朝、女性に誘われて浜へ行った。

 潜るわけではなく、干した海藻を返す作業を手伝う。網の上の若布を一枚ずつ裏返す。

 風が強いと葉が飛び、二人で追いかけた。

「一定の拍子でできませんね」

「風に指揮者を頼んでないからね」

 昼、宿の台所で海藻スープを作った。

 昆布出汁へ若布と葱、溶き卵を流す。

 女性は卵を一度に入れず、細く垂らし、固まるまで箸を動かさなかった。

「待つんですね」

「混ぜすぎると濁る」

 椀の中で、卵が黄色い布のように広がっていた。

 玲央奈がすすれば、海の塩気と出汁の温度が喉へ落ちる。若布は柔らかいのに、噛むと小さく抵抗した。

 宿を出る前、玲央奈は砂浜で音楽を一曲だけ流した。

 踊るつもりはなかったが、足が自然に動いた。

 最初の音ではなく、二つ目の音を聞いてから腕を上げる。波が寄せ、引く間へ呼吸を置く。

 誰も採点しない短い踊りは、最後まで音と一緒にいられた。

 女性は遠くから見て、拍手をしなかった。

 代わりに、乾いた若布を一袋くれた。

「家でスープにして。卵は急がせないこと」

 帰りの電車で、玲央奈の足にはまだ足湯の熱が残っていた。

 鞄から磯の香りが上がる。

 昇格の機会はまた来るかもしれない。来なくても、次の音を待って動く体は、今日ここから少しずつ覚え直せる気がした。