消費期限は午前二時
千景が買った鮭弁当の消費期限は、午前二時だった。
今は午後十一時十二分。十分間に合うのに、印字された時刻を見ると、今日という一日に締め切りを突きつけられたような気がした。
残業の理由は、誰かの失敗でも急な事故でもない。細かな確認が積み重なり、気づけば最後から二人目になっていた。退勤するとき、上司は「無理しないでね」と言った。無理をしないために何を減らせばいいのかは、誰も教えてくれない。
部屋に着き、弁当をレンジに入れる。表示は二分三十秒。待つあいだに化粧を落とそうと思ったが、洗面所へ行く前に床へ座った。スマートフォンを開くと、動画アプリが「睡眠の質を上げる夜習慣」を勧めてくる。入浴、ストレッチ、日記。どれも正しく、今夜の千景には遠かった。
電子レンジが鳴った。取り出すのが遅れ、鮭の表面に水滴がついている。千景は弁当を膝に置き、テレビもつけずに食べ始めた。ご飯の端は熱く、真ん中は少し冷たい。
母からの未読メッセージが一件あった。「帰り遅いの?」とだけ書かれている。離れて暮らしていても、母は何となく当てる。千景は「今ごはん」と返し、弁当の写真を添えようとしてやめた。心配させたくない。でも、元気そうに見せる加工をする力もなかった。
代わりに、鮭の皮だけ写った写真を送る。
すぐに「皮おいしいよね」と返ってきた。注意も励ましもない返事に、千景は少し救われた。
消費期限まで、まだ二時間以上ある。食べ終わる時刻も、風呂に入る時刻も、眠る時刻も、誰かに採点されるわけではない。
千景は弁当の漬物を最後に食べた。夜習慣の動画は閉じ、化粧だけ拭き取りシートで落とすことにした。
午前二時になる前に全部整えなくてもいい。鮭弁当が期限内なら、今夜はそれで合格だった。
千景は母から届いた魚のスタンプに、同じものを返した。それ以上の会話はしない。短い往復でも、ひとりで食べた夜が少しだけ誰かとつながった。弁当の期限より先に、自分を急かすのをやめられたことがうれしかった。