温室のレモンケーキ

 糸魚川澄玲は、雨の日の植物園が好きだった。

 晴れた休日は家族連れで賑わうが、雨の日は温室の硝子が白く曇り、人の声も葉の奥へ吸われる。

 その日、澄玲は傘を預け、熱帯温室へ入った。

 入口で眼鏡が曇り、しばらく何も見えない。眼鏡を外すと、緑の大きな影だけがゆっくり揺れていた。

 仕事では、細かな文字を一日中確認している。

 商品説明の誤字、価格、注釈。見落とさないことが大切で、目を細め続けるうち、休日にも細部を探す癖がついた。

 今日は眼鏡を拭かず、ぼやけた葉の中を歩いてみた。

 滝のそばで立ち止まる。

 水音、湿った土、甘い花の匂い。葉の先から落ちた雫が腕へ触れ、ぬるかった。

 ベンチへ座ると、巨大な葉が天井の光を半分隠した。細部が見えなくても、緑の濃さは分かった。

 途中の小さな池では、水面へ丸い葉が重なり、天井から落ちた雫が一つずつ輪を作った。澄玲はベンチの端へ手を置き、湿った木の冷たさまで確かめた。

 眼鏡をかけ直したのは、温室を半周してからだった。

 目の前の葉には細い筋が何本も走り、端に小さな虫食いがある。完璧ではない葉ほど、光を受けた輪郭がきれいだった。

 昼は園内カフェへ入った。

 レモンケーキと紅茶を注文する。細長い皿に載ったケーキには、白い糖衣が少しだけ割れていた。

 フォークを入れると、しっとりした生地から柑橘の香りが立つ。

 窓の向こうでは、雨が温室の屋根を細かく叩いていた。

 澄玲は本も携帯も開かず、一口ずつ食べた。酸味のあとにバターの甘さが残り、紅茶の湯気が眼鏡をまた少し曇らせた。

 今度はすぐ拭かず、そのまま窓を見た。

 午後、雨は弱くなった。

 売店で小さなシダを一鉢買う。育て方の札には、直射日光を避け、乾きすぎないように、と書いてある。

 澄玲は注意事項を何度も読まず、鞄へ入れた。

 家へ帰ると、シダを机の端へ置いた。

 葉から温室の湿った匂いが少しだけ残り、部屋にはレモンケーキの紙袋の甘い香りが漂った。

 澄玲は眼鏡を外し、ぼやけた緑をしばらく眺めた。見えすぎない時間にも、十分な輪郭があった。