温室前のレモンバーム
羽鳥志保は、植物園の温室へ入る直前に雨に降られた。
入園券を買ったばかりだったが、屋外通路を渡れず、入口の屋根の下で立ち止まる。
隣では、緑色の前掛けをしたボランティアの女性が、苗の箱を守っていた。
「濡れると困る苗ですか」
「植物は平気。名札が紙なの」
女性は箱の上へ新聞紙をかぶせた。
レモンバーム、タイム、ローズマリー。雨に濡れた葉から、さまざまな香りが立っている。
志保は休日に一人で植物園へ来た。
最近、職場で異動の話が出ている。行きたいとも行きたくないとも決められず、誰かに相談すれば結論を求められそうで黙っていた。
「植物って、植え替えたらすぐ元気になります?」
何となく訊くと、女性は苗を一つ持ち上げた。
「しばらく下を向くものもある。根を動かされたんだから当然よ」
「元気がないと、失敗した気になります」
「人間は、移した翌日に花を期待しすぎるのね」
女性は笑い、屋内の休憩所へ志保を案内した。
小さなポットで、レモンバームの茶を淹れてくれた。
葉へ湯を注ぐと、柑橘に似た明るい香りが上がる。
「これ、売り物では?」
「葉が折れた苗の分。折れたところは飲んで、残りは植える」
志保は紙カップを両手で包んだ。
雨は温室の屋根を細かく鳴らした。
硝子越しに、背の高いバナナの葉が揺れている。
「異動、断ってもいいんでしょうか」
気づけば口に出していた。
女性は理由を訊かなかった。
「鉢は、自分で歩けないからね。人間は選べる分、迷うのも仕事でしょう」
「迷っている間は?」
「水を切らさない」
それだけ言い、女性は苗の箱を整えた。
二十分後、雨は小降りになった。
志保は温室へ入る前、売店で小さなレモンバームの苗を買った。
異動の答えは出ていない。けれど今夜は早く帰り、鉢へ植え替えようと思った。
外へ出ると、雨上がりの空気に土と葉の匂いが満ちていた。
苗の紙袋から、指で触れるたび柑橘の香りが上がる。
新しい場所で葉が下を向いても、すぐに失敗と決めなくてよい。
志保は傘を半分閉じ、雫の残る園路をゆっくり歩いた。