湯気の向こうの内定
卒業旅行で泊まった宿の貸切露天風呂で、穂積絵里、秋月修吾、小宮山皐希は、肩まで湯に沈んでいた。雪が降るたび、修吾の頭に白い粒が乗り、皐希が笑って払った。
「ここならスマホ見られないから言う」と絵里が切り出した。「商社、辞退した」
修吾がむせた。「内定者代表の挨拶までしただろ」
「した。だから、もう逃げられないと思ってた。でも、逃げる」
「どこへ?」
「祖母の旅館。来月から仲居」
皐希は湯気の向こうで目を細めた。「この宿より小さいところ?」
「六部屋だけ」
修吾は石の縁に背を預けた。「俺は音楽続ける。就職しない。ライブハウスの受付しながら曲を書く」
絵里が「親、許した?」と聞く。
「許してない。だから引っ越し先を教えてない」
皐希だけが黙っていた。
「皐希は広告代理店だよね」と修吾。
「うん。行くよ」
二人が安堵した顔をしたので、皐希は笑った。
「二人が捨てた側へ、私は行く。安定とか肩書きとか、欲しい。悪い?」
絵里は「悪くない」と答え、修吾は「俺たちも悪くない」と重ねた。
「そうやって全員正しくなると、友達って終わるんだね」
三人は就職活動中、落ちるたびに同じファミレスへ集まり、誰か一人が決まるまで祝わないと決めていた。最後に決まったのは皐希だった。その夜の伝票を、彼女は今も財布に入れている。金額は三千三百三十三円。三人で一円ずつ譲り合い、最後は皐希が余分に払った。
「今回も私が余るのかな」と皐希が言った。
絵里は意味を聞けなかった。
皐希の声だけが、湯気を抜けてはっきり届いた。
脱衣所へ戻ると、籠が三つ並んでいた。絵里のスーツケースには旅館の住所を書いた荷札、修吾の鞄には折れたギターピック、皐希のコートには内定者バッジが付いている。
「卒業式、三人で写真撮ろう」と絵里。
「予定が合えば」と皐希。
修吾は返事をせず、濡れた髪を拭いた。
翌朝、洗面台には宿の歯ブラシが一本残っていた。誰のものか分からなかったが、三人とも取りに戻らなかった。
湯気の消えた鏡には、三人が指で描いた笑顔だけが、乾いて白く残っていた。