濁った鏡

取調室の鏡は、古い膜を一枚かぶったように濁っていた。

奥貫弥生警部は、その鏡越しに景山捜査一課長の視線を感じていた。向かいに座る土岐田望巡査部長は、情報提供者の居場所を漏らし、殺害につながった疑いをかけられている。土岐田は漏えいを認めたが、供述の一部だけを撤回していた。

「住所を景山課長へ報告した、と言ったのは嘘です」

「なぜ嘘を」

「鏡の向こうから、そう言えと合図された」

「あなたから向こうは見えない」

「普通なら」

土岐田は鏡の左下を指した。銀膜が劣化し、角度によって向こう側の光が透ける場所だ。

「前回、課長は赤いファイルを持って立っていた。俺が別の名前を言うたび、表紙を二回叩いた。課長の名を出したら、やめた」

弥生のイヤホンに景山の声が入った。

『妄想だ。撤回の理由だけ取れ』

土岐田は弥生の耳元を見て笑った。

「今も、答えをもらってる」

「指示を受けるのは通常のことです」

「じゃあ、イヤホンを外して俺を見てください」

弥生は外さなかった。土岐田が犯人なら、景山との対立を利用して逃れようとしている。だが前回映像を確認すると、土岐田が景山の名を口にする直前、濁った鏡の左下に赤い四角が二度揺れていた。音声には、硬い表紙を叩く微かな打音もある。

『奥貫、取調べを終えろ』

景山の命令が耳を刺した。

土岐田は声を落とした。

「漏らしたのは俺です。課長に命じられた。それを話すと、課長は自分の名だけを供述に入れさせ、あとで“妄想する部下”にした。あなたも同じ鏡になりますか」

弥生はようやくイヤホンを外した。鏡の向こうで景山の口が動く。聞こえなくても、命令だと分かる。

彼女は室内灯を消し、机上のスタンドだけを点けた。明暗が逆転し、鏡の向こうが透ける。景山は赤いファイルを抱え、こちらを睨んでいた。

弥生は取調べカメラを鏡へ向け直した。画面に景山の姿と赤いファイルが入る。

そのまま録画保全ボタンを押し、前回映像との照合を求める報告書を監察へ送った。