濡れた甲板では走らない

「濡れた甲板では、走らないでください」

飛空艇《青燕号》の甲板磨きナシュは、嵐の日ほど丁寧にそう言った。

船員たちは空賊より、彼の説教を面倒がった。ナシュは細身で、剣帯も勲章もない。いつも長いデッキブラシを抱え、雨水を排水口へ追いやっている。通信士コレットだけが、彼の足がどれほど船体が揺れても一度も滑らないことに気づいていた。

雷雲を抜けた直後、船尾へ鉤縄が一本飛んできた。

乗り込んできたのは一人だけ。赤い羽根帽子の空賊頭ガルダンだ。護衛艇を撒き、青燕号の航路晶石を奪いに来たらしい。船員は船内の火災対応に追われ、甲板にいるのはナシュとコレットだけだった。

「掃除屋、そこをどけ」

「靴底の泥を落としてからお願いします」

ガルダンは笑い、湾刀を抜いて走り出した。

ナシュはデッキブラシを一度だけ振った。

雨粒が横一線に止まった。

次の瞬間、湾刀は鍔から先が消え、鉤縄は船縁ぎりぎりで切れた。空賊の上着、武器帯、長靴の留め具まで同時に外れる。勢いを失えないガルダンは、広がった自分の外套を帆のように膨らませ、甲板を滑って船尾の非常用救命翼へ突っ込んだ。

翼は自動展開し、空賊を包んだまま雲海へゆっくり降下していく。

コレットは口を開けた。風と雨の間を斬り、船体には触れない《空帆一閃》。帝国艦隊を一人で退けた剣聖ナシュの代名詞だった。本人は戦死公報の肖像より、少し老けただけに見える。

ナシュは切れた鉤縄を巻き、空賊の泥の足跡へ洗剤を垂らした。雨を利用して一往復すると、侵入の痕跡はきれいに排水口へ消える。消えた湾刀の刃は、細かな鉄粉となって錆受け網に残っていた。

「船長に知らせます!」

コレットが通信室へ駆けようとした瞬間、足が水膜を踏んだ。

ナシュは片手で彼女の襟をつかみ、転倒を止める。もう片方の手では何事もなかったようにブラシを動かした。

そして空賊より厳しい顔で、冒頭と同じ言葉を告げた。

「濡れた甲板では、走らないでください」