炙りしめ鯖の表側
母からの着信を、三日続けて無視していた。
用件はたぶん、祖父の家をどうするかだ。空き家になって一年。親戚は売りたがり、母は迷っている。僕は幼い頃の夏休みをそこで過ごしたが、今は遠くに住み、片づけにも行っていない。意見だけ求められるのが嫌で、忙しいふりをしていた。祖父の家の柱には、僕の身長を鉛筆で刻んだ跡がある。覚えているからこそ、残せとも売れとも簡単には言えなかった。
夜勤前に入った居酒屋には、無口な常連が一人いた。黒いシャツの胸ポケットで、その人の携帯電話が震えた。男は画面を見て、通話には出ず、短い文章だけ打って伏せた。
僕は炙りしめ鯖を頼んだ。皮へ炎が走り、ぱちぱちと脂が弾ける。酢の鋭い匂いに、焦げた魚皮の香ばしさが重なった。皿の鯖は表面だけ温かく、身の中心には冷たさが残っていた。
「炙るの、表だけなんですね」
思わず言うと、店主は頷いた。
「中までやると、しめた味が消えるから」
口へ入れると、温かな脂のあとから冷たい酸味が来た。相反する温度が、同じ切り身の中に残っている。
奥の常連の携帯がまた震えた。今度も出ない。けれど男は画面を開き、『あとでかける』らしい短い文字を打った。送信してから、電話を胸ポケットではなくカウンターの上へ置いた。
僕は母の着信履歴を開いた。電話をかける時間は、夜勤の開始まで二十分しかない。家の結論まで話すには足りない。だから『これから仕事。明日の午前に電話する。家のこと、逃げずに聞く』と送った。
すぐに『了解』と返ってきた。送信前に一度消しかけたが、短い約束ほど破れない気がして、そのまま残した。その二文字だけで、祖父の家が残るわけではない。売るにしても、残すにしても、僕が手伝えていない事実も変わらない。それでも明日の午前、まず母の迷いを最後まで聞くと決めた。
最後の鯖は、皮の焦げがいちばん濃い部分だった。噛むと脂は温かく、酢は冷たかった。どちらかに揃わない味が、喉を通ったあともしばらく胸の辺りに残っていた。