焦げた味噌の朝

午前五時五十五分、城戸口靖久は厨房のタイマーを止めた。表示は〈最後の五分〉。父の鉄生が、欠けた木杓子で鍋を混ぜている。

「味噌は焦がすな」

六時ちょうど、床下のガス管が破裂する。靖久は父を十九回、裏口まで連れ出した。だが鉄生は必ず店へ戻った。金庫、位牌、予約帳。理由は回ごとに違い、最後には創業時から継ぎ足した味噌種の壺を取りに戻って死んだ。

時間を戻す厨房タイマーの終了条件は、六時に二人が裏口の白線より外にいること。電池はあと一度しか作動しない。

最後の朝も、父は言った。

「味噌は焦がすな」

靖久は鍋の火を消し、店の奥から黒い帳面を持ってきた。祖父の代からの配合、客の好み、借金を返した日まで書かれた店の記憶だ。父が何を置いても、これだけは取りに戻る。

靖久は帳面へ油をかけ、裏口のコンクリートで火をつけた。

「何してる!」

鉄生が飛び出し、燃える帳面を足で踏んだ。その背後で店が持ち上がるように爆発した。窓ガラスが白線の手前へ降り、二人は外側にいた。

六時一分。タイマーは進み続けた。

鉄生は助かった。だが靖久の胸倉をつかみ、「お前は店を殺した」と言った。靖久は否定しなかった。保険は老朽管の未申告を理由に下りず、再建資金も、レシピも、常連の席も失われた。

数か月後、鉄生は別の町の食堂で雇われた。靖久とは口をきかなかった。

爆発のあと、鉄生は燃え残った帳面の一頁を拾おうとした。靖久はその手を止め、頁ごと水たまりへ沈めた。配合を再現できれば、父はまた同じ店を建て、同じ床下へ戻ろうとする。鉄生は頬を打ち、そのまま救急車へ乗った。靖久の耳にはタイマーの電子音が残ったが、厨房へ戻って止めることはできない。六時二分、町のパン屋が開く音を初めて聞いた。

地方紙は「老舗を救った息子」と書いた。靖久は記事を破った。救ったのは父の呼吸だけで、父が自分だと思っていた店も、親子の会話も救えてはいない。

焼け跡から見つかった木杓子は、先だけ真っ黒だった。靖久はそれを洗わず、新しい部屋の流し台へ立てた。焦げた匂いだけが、朝になると戻ってきた。