牛すじカレー煮の底

閉店時刻を過ぎてから、若い客が戸を叩いた。店主は入口の灯りを消しかけていたが、相手の濡れた封筒を見て、黙って戸を開けた。

「煮込みしかないよ」

「それをください」

小鍋の底から牛すじカレー煮がすくわれる。火に戻すと、濃い表面でぼこ、ぼこと泡が割れた。クミンと玉葱の甘い匂いが立ち、煮えた牛すじの脂が橙色に光った。木匙が鍋底をこする音は、静かな店に低く響いた。

客は一人で映像編集の仕事をしている。封筒の中身は、三か月払われていない請求書の控えだった。発注元からは「来週には」と何度も言われ、そのたびに待った。催促して次の仕事を切られるのが怖かったからだ。今月の家賃を払えば、口座にはほとんど残らない。夕方、コンビニの棚の前で弁当を戻し、安いパンだけを買ったことが急に腹立たしくなった。財布の薄さより、黙って待ち続ける自分のほうが惨めだった。

皿に盛られた牛すじは、箸で触れると形を崩した。客は一口食べ、熱さと辛さに息を吸った。

「これ、鍋の最後のところですか」

「そう」

店主は鍋を流しへ運びながら付け足した。

「底、焦がさないようにしてた」

客は皿の濃い色を見た。最後まで残ったから味が深いのか、長く火にかかっていたからなのかは分からない。ただ、焦げる直前まで待つことと、丁寧に煮ることは同じではなかった。

スマートフォンで新しいメールを作った。感情を書き始めて、全部消す。代わりに、請求番号、金額、支払期限、これまでの連絡日だけを並べた。期限は明後日の正午。明日の朝、送信する。返答がなければ、取引記録を添えて相談窓口へ連絡することも一行加えた。

仕事を失うかもしれない。払われる保証もない。相手を怒らせたら、業界で悪く言われるのではないかという不安も残る。それでも、自分の生活が焦げるまで、鍋の外だけを気にするのはやめようと思った。

最後の牛すじは舌でほどけた。辛さの奥に玉葱の甘みがあり、飲み込んだあとも、とろりとした熱が胃の底へゆっくり沈んでいった。