牛鍋の最後の泡
国枝真琴が「来週、仙台へ移ります」と言うと、店主は牛鍋の小さな鉄鍋を出した。
「転勤か」
「治療です」
それ以上を聞かれなかったことに、真琴は救われた。
健康診断から始まった検査で、腹部に腫瘍が見つかった。良性かどうかは、手術をして調べる。東京で一人暮らしを続けるより、姉夫婦の近くで治療を受けることにした。
姉には「簡単な手術」としか言っていない。電話の向こうで甥が騒いでいたから、言葉を飲み込んだ。それ以来、姉は新しい寝具や病院までの道を調べ、明るい声で連絡をくれる。その明るさを壊したくなくて、真琴も「すぐ戻れる」と答え続けた。
最後の夜、店に客は真琴一人だった。割り下が鍋肌でふつふつ鳴り、醤油と牛脂の甘い匂いが立ち上る。薄切り肉の赤が消え、焼き豆腐の角から白い湯気が上がった。
「煮えたものから、どうぞ」
店主が言った。
真琴は肉を一枚取った。熱い割り下が舌へ広がり、噛むほど脂の甘さが出た。鍋の中では、まだ赤い部分が少し残っている。
「全部、煮えるまで待ったほうがいいですか」
「待ちたいなら」
真琴は姉とのトーク画面を開いた。明日の昼、病院から説明資料をもらったあと、病名の候補も手術後に分かることも、隠さず話す。安心させる言葉は、最後に一つだけにする。
姉が泣くかもしれない。自分も怖いと口にしてしまうかもしれない。治療の先も、仕事へ戻れる時期も分からない。それでも、一人で分かったふりをするのは今日で終える。
姉の家には受験を控えた甥がいて、長く居れば生活の邪魔になるかもしれない。真琴はその心配まで隠し、「一か月だけ」と勝手に期限を決めていた。明日は治療の話と一緒に、滞在の長さや費用も相談する。迷惑をかけない方法を一人で完成させてから頼るのではなく、迷惑の形を一緒に決めてもらう。家族だから当然だとは思わない。ただ、家族ではないふりもやめる。
鍋の火を止めても、最後の泡が一つだけ上がった。真琴は煮えた肉を口へ運び、甘辛い熱が喉を通り切るまで、ゆっくり息をした。