犬が覚えていた道

「この子は、人を忘れないから」

犬塚伊吹の家が突然町を離れることになった中学三年の冬、水尾瑠璃は飼い犬の頭を撫でながらそう言った。

伊吹は「じゃあ、俺の代わりに覚えててもらう」と笑った。別れの理由は父親の転職だと聞いたが、その後、彼から連絡はなかった。瑠璃は自分まで忘れられたのだと思った。

十二年後、老犬の足腰が弱り、瑠璃は紹介された動物リハビリの訪問サービスを頼んだ。玄関に現れた担当者が伊吹だった。

驚いたのは瑠璃より犬のほうだった。よろけながら立ち上がり、低い声で鳴いて、伊吹の膝へ鼻を押しつける。伊吹は床へ座り込み、目元を隠すように笑った。

施術中、二人は近況だけを話した。伊吹は専門学校を出て県内へ戻り、半年前から隣町で働いている。連絡しなかった理由は尋ねられなかった。仕事で来ただけなら、過去を持ち出すのは重い気がした。

帰り際、伊吹は次回予約の端末を開いた。

「来週の日曜、同じ時間で」

「仕事なら、別の担当でも大丈夫」

「仕事は三十分で終わる。そのあと、散歩に付き合ってほしい」

老犬は今、十五分ほどしか歩けない。残りの時間を誰と歩きたいのか、伊吹は言葉にしなかった。

瑠璃は予約を承認し、散歩時間を一時間に延ばした。伊吹が首輪を返そうとしたとき、二人の手がリードの持ち手で重なる。

「連絡、できなくてごめん」

伊吹はポケットから、古い犬の写真を出した。裏には何度も書き直した瑠璃の住所と、出せなかった手紙の日付が並んでいる。家庭の事情で転居を繰り返し、何を書いても言い訳に見えたのだという。

瑠璃は写真を受け取り、代わりに伊吹のスマホへ自分の番号を登録した。表示名は《水尾》ではなく《瑠璃》

「この子だけに覚えさせないで」

玄関の外まで見送ると、老犬もゆっくりついてきた。伊吹は瑠璃の手を取り、リードごと包む。

この子は人を忘れない。

けれど次の日曜へ続く道を覚えたのは犬だけではない。瑠璃と伊吹も、幼なじみではなく会いたい相手として、同じ持ち手を離さなかった。