猫が見ない方角

冬木柚葉は、母から送られてくる写真に「感じのよさそうな人だね」と返していた。会ったことのない男性の、スーツ姿の写真。週末に一時間だけ会い、その後で断ればいい。そうして三人に会い、三人とも断れず、返事を曖昧にしたまま疲れていた。

母は柚葉の将来を本気で心配している。柚葉も、いつか結婚したい気持ちはある。だからこそ「今は会いたくない」という小さな拒否を、人生そのものへの反抗にされるのが怖かった。日曜のたび、自分の気持ちより先に、母を安心させる返事を選んだ。

仕事帰り、柚葉は近所の小さな神社へ寄った。境内の端に、片耳の欠けた石の猫がいる。子どもの頃から、願い事を聞かない猫として知られていた。

賽銭を入れずに前を通ると、猫が低い声で言った。

「誰の顔色を、飼っている」

柚葉は立ち止まった。後ろには誰もいない。石の猫は正面を向いたまま、もう一度も同じことを言わない。

「どういう意味?」

代わりに、猫の首がぎ、と右へ動いた。

「わたしが見ていない道で帰れ」

それきり石に戻った。右の参道は駅へ続く近道、猫が見ていない左は、古い商店街へ回る遠回りだった。

柚葉は左へ歩いた。閉店した文具店、夜だけ開く花屋、ガラス越しに髪を短く切る美容室。いつもの帰り道にないものばかりで、自分の町なのに旅行のようだった。商店街のスピーカーから古い歌が流れ、八百屋の店主が売れ残りの梨を箱へ戻している。柚葉は、正解の方角から外れても、町が途切れないことを確かめるように歩いた。

スマートフォンが震えた。母から、今度の日曜の待ち合わせ場所が届く。〈一度会うだけでいいから〉と続いた。柚葉の指は、いつもの〈わかった〉を選びかける。

花屋の前で足を止める。店先のバケツには、同じ方向を向かないチューリップが並んでいた。猫の問いに答えは出ていない。母が悪いとも、結婚が嫌だとも言い切れない。ただ、会いたくない日曜だけは、今ここにある。

柚葉は〈今回は会いません〉と打った。理由を三行書き、全部消す。

短い一文のまま送信し、猫から見えない商店街を、さらに左へ曲がった。