猫の爪あと
保護猫施設の玄関で、桑名佳乃の猫柄の傘が、透明傘に取り替わっていた。
黒猫の耳が持ち手に付いた、少し子どもっぽい傘だ。施設へ来たばかりの猫たちは、その傘を床に開くと、不思議と下へ潜り込んだ。佳乃は掃除のたび、臨時の隠れ家として使っていた。
午後、玄関を通ったのは、ボランティアの船橋逸美、譲渡希望者の鳥栖由佳、獣医の志水陸。由佳は猫を迎えるための説明を受け、志水は診察へ出た。逸美は「傘には触っていない」と言う。
残された透明傘の持ち手には灰色の毛が三本。留め紐には新しい爪あとがあり、譲渡申込書の控えが細く折られて挟まっていた。
佳乃は、今日譲渡される灰猫のルルを思い出した。人の手が近づくだけで固まり、キャリーケースに入れようとすると奥へ逃げる。由佳は一時間待ったが、怖がらせるなら今日でなくていい、と帰る準備をしていた。
駐車場へ出ると、由佳の車の後部座席に猫柄の傘が開いていた。その下で、ルルがキャリーから半分だけ顔を出している。逸美は濡れたまま、車の外に立っていた。
「これを見せたら、自分から入ったんです」
逸美は観念して言った。
「勝手に借りて、ごめん」
施設でルルが初めて眠ったのも、猫柄の傘の下だった。傘はルルにとって、見知らぬ家へ持っていける唯一の天井だった。
「だったら、先に言ってくれれば」
「言ったら佳乃さん、自分で送るって言うでしょう。朝から食事もしてないのに」
佳乃は返す言葉がなかった。逸美は透明傘を自分の代わりに残し、ルルの移動だけを手伝うつもりだったのだ。
由佳が車の窓を少し開けた。
「この傘、今夜だけ借りてもいいですか。新しい部屋で、最初に隠れる場所が要るから」
佳乃は黒猫の耳を撫でた。大切な傘だが、役目を終えるより、もう一晩役に立つほうがいい。
「返すときは、ルルの写真を一枚付けてください」
車が走り出す。傘の下から灰色の耳が小さく見えた。
佳乃は手を振り、たった一言だけ送った。
「いってらっしゃい」