獣文字

獣の真名を呼べば、一度だけ命令できる。ただし命令するたび、自分の名の一文字が獣の名へ置き換わる。

崖下で、角を持つ巨獣オルモが村へ向かっていた。

ヴェシアナは鐘楼の屋根に立ち、喉に集めた真名を吐き出した。

「オルモ。止まれ」

巨獣の前脚が土をえぐって止まった。同時に、ヴェシアナの胸元の名札が熱を持つ。五文字のうち最後の一字が、獣の文字へ変わった。

母が下から叫んだ。

「ヴェシアナ、降りて! もう十分よ!」

十分ではない。止まっただけで、オルモは村の方を向いたままだ。背の岩が崩れれば、家々を押し潰す。

ヴェシアナは二度目の真名を呼ぶ。

「オルモ。背を向けろ」

巨獣がゆっくり旋回した。名札の二文字目が黒く割れ、丸みを帯びた獣文字になった。下で村人たちが彼女の名を呼ぼうとして、音を間違え始める。

「ヴェ……オ、何て?」

名が変わると、呼ぶ側の記憶も変わる。あと三度命じれば、彼女は完全にオルモと同じ名になる。どちらが人でどちらが獣か、言葉の上では区別できない。

崖が鳴った。

巨獣の背から岩塊が剥がれ、避難途中の子どもたちへ落ちる。

三度目。

「オルモ。受け止めろ」

巨獣は身を投げ出し、角で岩を支えた。名札の中央が変わる。ヴェシアナの指先に灰色の毛が生えた気がしたが、見ないふりをした。

「もう呼ばないで」

母が鐘楼へ登ってきた。泣きながら娘の口を塞ぐ。「村は逃げられる。あなたまで失う必要はない」

だが巨獣の脚は震え、岩は今にも落ちそうだった。川まで運ばせれば、誰も傷つかない。

残る命令は二つ。残る自分の文字も二つ。

ヴェシアナは母の手を外した。

「私の名、覚えていて」

「もちろん。あなたは――」

母は言いよどんだ。すでに半分を思い出せない。

ヴェシアナは四度目の真名を呼んだ。

「オルモ。岩を川へ」

巨獣が歩き出す。名札には、最後の一文字だけが人の形で残った。

母がそれを指でなぞり、幼い娘を寝かしつけたときの発音を探す。

ヴェシアナは川を指した。

あと一度、呼べば届く。

彼女は母の唇が自分の名を思い出すより先に、獣の名を吸い込んだ。