病棟のプリマドンナ
耳の遠い神足祭は、医師から「明日はオペです」と告げられた。
祭は七十八歳。若いころ、町の合唱団で主役を務めたことがある。
「まさか、この年でオペラに呼ばれるとはねえ」
付き添いの孫が否定しようとしたが、医師は次の患者へ移ってしまった。
翌朝、祭は病衣の上に羽根飾りを付け、病棟の廊下で発声練習を始めた。
看護師が駆け寄った。
「神足さん、絶食ですよ」
「舞台前に食べないのは当然です。役は何?」
「胆のうです」
「大胆な新作ね。相手役は?」
「執刀医です」
「指揮も?」
「全体を仕切ります」
会話が驚くほど成立してしまう。
「合唱は何人?」
「看護師二名と器械出し一名が入ります」
「少人数編成ね。衣装は?」
「全員、青か緑です」
「舞台美術は?」
「清潔第一で、余計な物は置きません」
祭は前衛的な演出だと感心し、病室の隣人へ「私の復帰公演よ」と宣伝した。見物を希望する患者が三人集まり、看護師に解散させられた。
祭は手術同意書を見て眉をひそめた。
「全身麻酔。観客を眠らせる演出?」
「眠るのは神足さんです」
「主役が?」
「目覚めたら終わっています」
「そんな公演で拍手はもらえるの?」
「血圧が安定していれば、スタッフ一同ほっとします」
「口パクどころか、寝ているだけじゃない」
看護師は返答に困った。
手術室へ向かう途中、祭は麻酔科医へ尋ねた。
「幕は何時に上がるの」
「二時開始です」
「終演は?」
「順調なら一時間ほど」
「短いオペラだこと。アンコールは?」
「できれば再演なしで」
手術室の前で、孫がようやく追いついた。
「おばあちゃん、オペはオペレーション、手術のこと!」
祭は羽根飾りを外し、しばらく黙った。
「道理で台本をくれないと思った」
医師が申し訳なさそうに説明を始めると、祭は手を上げた。
「分かりました。ただし一つ条件があります」
「何でしょう」
「退院祝いは、本物のオペラにして」
手術は無事に終わった。
目覚めた祭の第一声は、よく響いた。
「ブラボー。再演は結構です」