白い豆腐の逃げ道
岩室菫は、真っ赤な麻辣鍋の中から、辛い汁に染まっていない豆腐を探した。
友人五人の月例鍋会。今月の店を選んだのは、菫に何度も金を借りている友人だった。転職までのつなぎ、病院代、急な更新料。理由は毎回もっともらしく、菫も毎回断れなかった。
そのたび返済日は翌月へ延びた。菫は自分の歯科治療を先送りし、欲しかった机も諦めた。けれど貸した理由を思い返すと、返せと言う自分だけが冷たい人間に見えた。
今日、その友人は新しいバッグを持ってきた。借金の返済については触れないまま、「今月は割り勘で」と笑った。
鍋から花椒の痺れる香りが立った。菫が取った豆腐は表面だけ赤く、内側は白く滑らかだった。熱い器を指先で支え、白い中心から少しずつ食べた。
腹が立っていると言えない。金を返してと言えば、友情を金額へ換えるようで怖い。学生時代、菫が失恋した夜に泊めてくれた相手でもある。昔受け取った親切まで請求書にするようで、口を開けなかった。けれど通帳の残高を見るたび、自分の生活だけが後回しになっている。
友人が菫の皿へ肉を入れようとした。菫は初めて、皿を引いた。
「豆腐でいい」
短い言葉だったが、卓上の空気が変わった。
菫は白い部分を食べ切らず、一角を残した。そこへスマートフォンを立てかけ、送金履歴の画面を表示した。合計額は、鍋代の何十倍もある。
借りた友人はバッグの留め金へ触れた。言い訳を待つ代わりに、菫は取り皿を鍋から離した。辛い汁へ戻さなければ、豆腐はそれ以上赤くならない。
「来月から、千円ずつでも返して」
長い説明はしなかった。
別の友人が会計票を取り、菫の分だけ線を引いた。今日の鍋代は、借りた友人の前へ置かれた。誰か一人を責めるためではなく、これ以上、菫だけに見えない支払いをさせないためだった。誰も大声を出さず、鍋の火だけが静かに鳴っていた。
菫は残した白い一角を最後に食べた。花椒の香りはまとっていたが、中まで同じ色ではなかった。
帰り際、最初の返済通知が届いた。金額は千円。
小さくても、それは菫の生活へ戻るための、最初の白い逃げ道だった。