白い輪のあと
胡桃のベランダには、丸い白い跡が残っている。
以前そこには灰皿があった。同居していた恋人が、寝る前に一度だけ煙草を吸うための場所だった。別れて灰皿を持っていったあとも、陶器の底が焼きつけた輪だけは、洗剤でこすっても薄くならなかった。
午前一時半、胡桃はスポンジと水の入ったバケツを持って外へ出た。
室外機が回り、ぬるい風を足首へ当てる。街灯のオレンジ色が床を斜めに照らし、白い輪だけを妙にくっきり浮かべていた。
水をかける。
こする。
室外機が止まる。
また水をかける。
輪は濡れて見えなくなり、乾き始めると戻ってくる。
胡桃は力を入れた。スポンジがざらざら鳴り、腕が重くなる。消したいのは煙草の跡なのか、毎晩窓を開けて待っていた自分なのか、途中から分からなくなった。
仕切り板の向こうから、細い煙が流れてきた。
一瞬、煙草だと思った。けれど甘い草の匂いがする。隣のベランダに蚊取り線香が置かれたらしい。赤い火は見えず、渦を巻く煙だけが板の上を越えてくる。
向こうで誰かが咳を一つし、金属の受け皿を少し動かした。
煙の向きが変わり、胡桃の側から離れていく。
声はかからなかった。胡桃も何も言わなかった。
床の水は排水口へ細く流れ、白い輪がまた現れた。さっきより薄くなった気もするし、照明の角度が変わっただけにも見える。
胡桃はスポンジをバケツへ落とした。
今夜消えなくても、もう灰皿はない。輪は何かが置かれていた跡であって、今も置かれているものではない。
胡桃は乾いた布で輪の外側だけを拭いた。中心には水が残り、街灯を丸く映している。以前は煙草の火を待ちながら見ていた同じ床を、今は自分の手で濡らし、自分の都合で片づけている。寂しさは消えなくても、待つ相手はいなかった。スポンジから落ちる水音を三度聞き、それ以上こする理由がもう出てこないことを確かめた。
バケツを持って部屋へ戻る。窓を閉める前に一度だけ振り返ると、蚊取り線香の煙はもう見えなかった。
胡桃は残った輪の上へ何も置かず、ベランダの照明を消した。