白紙の指導案

七緒は、熱を出した日にも授業の準備をしていた。

学習塾の講師になって二年目。休講にすると生徒の進度が遅れる。代講を頼めば、その人の予定を奪う。だから三十八度の熱があっても、オンラインに切り替えて授業をしたことがある。画面越しなら顔色は照明で隠せた。

その朝、喉が焼けるように痛み、声がほとんど出なかった。体温計は三十八度一分。夕方には中学二年生の国語が二コマある。七緒は布団の上でノートパソコンを開き、指導案を作り始めた。代講者が困らないよう、板書の順番、質問例、宿題の範囲を細かく書く。休むなら、休んだ穴を自分で埋めなければならない。

一時間かけて、一コマ目の案ができた。二コマ目のページは白いまま。カーソルだけが点滅している。頭痛で文章がまとまらず、同じ一文を三度打ち直した。

教室長からメッセージが来た。

《代講、三谷先生が入れます。教材だけ共有してください》

七緒は「指導案をすぐ送ります」と返信した。すると、すぐに《教材だけで大丈夫です》と返った。

大丈夫という言葉が、七緒には信用できなかった。自分が細かく準備しなければ、生徒が分からないまま帰るかもしれない。代講者に雑な人だと思われるかもしれない。休む人ほど完璧な引き継ぎを残すべきだと、誰にも言われていないのに決めていた。

白い画面を見つめていると、くしゃみが出た。マグカップに肘が当たり、机へ水がこぼれる。七緒は慌てて教材を持ち上げた。紙の端が濡れ、インクが少しにじんだ。

その青いにじみを見て、急に力が抜けた。今日の自分は、きれいな指導案を作れる状態ではない。それを認めることは、生徒を見捨てることとは違う。そう考えられたのは一瞬だけで、すぐ罪悪感が戻った。

七緒は一コマ目の長い指導案を削除した。代わりに教材のページ番号と、「読解問題三まで」の一行だけを書く。二コマ目も同じ形式にした。教室長へ送信し、パソコンを閉じる。

布団へ戻る前に、机の白紙へ「休」と大きく書いた。予定表に休みを記すとき、いつもは小さく薄く書く。今日は黒いペンで、枠いっぱいに書いた。

授業は夕方になれば始まり、自分のいない教室で進む。うまくいく保証はない。七緒はそれを確認するための連絡をしなかった。濡れた教材を椅子に広げ、喉の痛みと一緒に布団へ戻った。