白羽の一本
雪岳城の西櫓で、弓将・徐文基は一本の矢をつがえた。
白鶴の羽。黒塗りの鏃。軸には髪ほど細い切れ目があり、その中へ薄紙が巻かれている。
城主・李泰昊は背後に立っていた。
「敵の太鼓手を射よ。三百歩だ。おまえなら届く」
谷底では、包囲軍の太鼓手が火のそばに座っている。若い。兜もかぶっていない。撃てば届く距離だが、文基が狙っているのは、その十歩横に立つ青旗だった。
薄紙には西壁の亀裂と、夜警が交代する刻が書かれている。
敵へ渡せば、城は朝まで持たない。
「風が変わりました」
文基が言うと、泰昊は鼻で笑った。
「風を言い訳にする腕か」
城外の村には、まだ二百人が残っている。泰昊は昨日、敵へ食糧を渡させないため、村を焼けと命じた。文基が止めると、城主は答えた。
――民はまた生える。城は一度しか落ちぬ。
夜、文基は敵の捕虜から条件を聞いた。西壁を開ければ、村と降兵を助ける。泰昊の首だけを求める、と。
約束を信じたわけではない。ただ、泰昊の命令よりはましだった。
「その矢を見せろ」
不意に城主が言った。
文基の指が止まる。
泰昊は近づき、白羽へ手を伸ばした。羽の根元には赤い染みがある。文基の弟が処刑された夜、その血で印をつけた。弟は敵の間者ではなかった。焼村の命令書を隠しただけだ。
「汚れているな」
「獲物を追う矢には、印が要ります」
「何を追う」
「城を売った者を」
泰昊の目が細くなった。文基の横には、城主の護衛が二人いる。ここで刃を抜けば、矢を放つ前に斬られる。
だから弓だけを引いた。
弦が耳元で鳴る。矢先は太鼓手へ向いている。だが三百歩先では、青旗の兵がこちらを見上げていた。昨夜、松明を三度振って合図を返した男だ。
泰昊が低く命じた。
「射よ」
文基は狙いを半寸右へずらした。
護衛が気づき、刀の鯉口を切る。
「殿」と文基は言った。「命令、確かに承りました」
指を開く。
白羽の一本が夜気を裂いた。弟の血を載せた矢は、太鼓手の頬をかすめ、青旗へ向かって放たれた。