白衣の袖口
外来の交代まで十分。矢吹雄大は地域医療センターへ送る段ボールに、医学書を詰めていた。四月から山間部の病院へ転勤する。希望者の少ない二年間の任期だ。
戸塚恵理が、洗濯済みの白衣を持って処置室へ入ってきた。
「これ、借りたままだった」
「もう新しいのが支給される」
「袖、直してあるから」
雄大の白衣は腕が長く、恵理が使うと袖口が手を覆った。夜勤で自分の白衣を汚した彼女へ貸して以来、半年間戻ってこなかった。袖の内側には、彼女が仮縫いした青い糸が残っている。コーヒーの染みは落ちたのに、糸だけは外されなかった。恵理は袖を折るたび、『返す日を忘れないため』と言っていた。
先月、雄大は「向こうで一緒に暮らさないか」と聞いた。恵理は「今の患者を置いていけない」と答えた。断られたのだと思い、彼はそれから私生活の話をしていない。宿舎の間取りも、雪の日の通勤方法も、一人で調べた。画面に二人掛けの食卓が出るたび、検索履歴から消した。
「二年は長いよ」恵理が言った。
「待ってくれとは言わない」
「そうじゃなくて」
「結論は聞いた」
院内放送が、雄大の最後の外来を告げる。
恵理は白衣のポケットを確かめ、何か言いかけた。だが看護師が扉を開け、「先生、患者さん入ります」と呼んだ。
「行って」雄大は言った。「これ以上遅れると困る」
恵理は白衣を机へ置き、出ていった。
診療を終えたのは十分後だった。雄大が白衣を箱へ入れようとすると、胸ポケットに硬い紙が触れた。県の人事異動申請書だった。戸塚恵理、希望先は雄大と同じ医療センター。異動希望日は半年後と書かれている。
裏に付箋がある。
〈担当している子の治療が九月で終わる。それまで待ってほしい、と言うつもりでした〉
携帯には、恵理から一件。
〈もう待たなくていい。申請は取り下げます〉
送信時刻は、雄大が「結論は聞いた」と言った一分後。既読をつけた瞬間、廊下のエレベーターが閉まる音がした。
雄大は返信を書かず、青い糸の残る白衣を着た。袖を元の長さへ戻さないまま、下行きのボタンを押した。