砥石の水

料理人を目指す耀は、祖父の基一に包丁研ぎを習った。

砥石を水へ沈め、泡が出なくなるまで待つ。祖父は時計を見ず、石の音を聞いている。

「もういい?」

「まだ水を飲んでる」

やがて泡が止まり、包丁を寝かせて滑らせる。しゃっ、しゃっ、と一定の音が台所に響く。

耀が研ぐと刃先が揺れ、片側だけ細くなる。

「力じゃない。角度を動かすな」

基一の手を上から重ねてもらう。節の太い指は冷たく、砥石の水で濡れていた。

研ぎ終えた包丁で大根を切る。刃が重みだけで入り、断面が光った。

祖母はその大根で煮物を作った。鍋から昆布と醤油の匂いが立つ。

数か月後、基一は手首を痛めた。包丁は研げても、長く続けられない。

耀が代わりに家中の刃物を集めた。出刃、菜切り、小さな果物ナイフ。一つずつ水へ当てる。

祖父は横で音を聞き、「少し立ちすぎ」「今はいい」と言った。

最後に、基一が長年使った菜切りを研ぐ。刃は何度も減り、幅が狭くなっている。

夕飯の大根は、耀が切った。祖父は箸で一つ持ち上げ、断面を見た。

「包丁の味だな」

意味は分からなかったが、褒め言葉らしい。

食後、砥石を陰干しした。表面には包丁の鉄の匂いが残り、溝に溜まった水は夕方の光でまだぬるかった。

耀が働き始めた店では、電動の研ぎ器も使った。速く均一に仕上がるが、休日には祖父の砥石へ戻る。基一の手首は治り、短い時間ならまた研げるようになった。二人で同じ包丁の左右を担当する。音は少し違い、祖父のほうが低い。研ぎ終えた刃で葱を切ると、目へ香りが刺さった。基一は涙を拭う孫を見て笑う。砥石を水から上げると、底へ細かな鉄粉が沈み、二人の指の温度で水だけがわずかに温かかった。

基一は菜切りを耀へ譲った。店で使うには小さすぎるが、自宅で葱を切るにはちょうどよい。刃を洗うと、細くなった鋼から祖父の砥石と昆布出汁の匂いが立つ気がした。