祈りの向こうで悪魔が退く
黒角将マハクが修道城へ着いたとき、城壁の上には尼僧ティルザしかいなかった。
兵も騎士も逃げていた。残っているのは病人と孤児、そして百年鳴っていない祈りの鐘だけだ。
「門を開けろ。中の命は半分で許す」
ティルザは鐘楼の綱を両手で握った。
「半分を選ぶ資格は、あなたにはありません」
マハクは笑い、角から衝撃波を放った。城壁の根元が裂け、鐘楼ごと内側へ崩れ落ちる。石材と黒煙が修道院の庭を覆い、悪魔兵たちは門へ殺到した。
しかし将軍は動かなかった。
煙の中から、鐘の音が聞こえた。
一回。二回。三回。
百年動かなかった大鐘が、崩落前と同じ間隔で鳴っている。綱を引く者が立っていなければ出せない音だった。
黒煙が晴れる。
ティルザは同じ姿勢で立っていた。両手で綱を握り、足を前後に開いている。鐘楼の石は彼女の周囲で砕け、鐘だけが空中から落ちきらず、その頭上へ静止していた。
従軍呪術師が聖力計を掲げたが、針は零から動かなかった。神の加護でも結界でもない。尼僧の身体だけが、落下も圧力も受け付けていない。悪魔兵にとって、聖なる奇跡なら汚して壊せる。何の理屈もなく壊れないもののほうが、はるかに恐ろしかった。
城門の向こうでは孤児たちが鐘に合わせて祈り始めた。守られているのは尼僧一人ではないと、悪魔軍にも分かった。
「聖域か」
マハクは地面へ爪を立てた。聖域なら、魔力の匂いがする。だが彼の鼻に届くのは石灰と薬草、病人の汗だけだった。
「ならば祈りごと焼く」
右腕を魔獣の顎へ変え、地獄火を圧縮する。二撃目は城一つを内側から燃やす〈冥府の咬み痕〉。黒い炎が尼僧と鐘を包み、庭の土を硝子へ変えた。
炎が消え、煙が流れる。
ティルザは綱を握ったまま、四度目の鐘を鳴らした。袖も髪も焼けていない。背後の病室では、眠っていた子供がその音で目を覚ましただけだった。
マハクは初めて、自分の炎が相手へ届かなかったのではなく、届いたうえで何もできなかったのだと悟った。
黒角将は、城壁の残骸の前で一歩退いた。