種の方角
農家の一人息子は、家を継ぐか迷っていた。
父は何も言わない。
「好きにしろ」
とだけ繰り返す。
その言葉は自由ではなく、期待を隠した命令に聞こえた。
農業試験場でもらった翻訳布には、種を包んで握ると、その種が植わりたい方角を一度だけ聞けると書いてあった。
息子は家の豆を包んだ。
「南。石の少ない土」
次は麦。
「東。朝の風」
種は皆、この畑へ残りたいと言うと思っていた。
ところが古い蔵から見つけた祖父の稲は、
「遠く。水の知らない場所」
と答えた。
父へ見せると、
「種にまで逃げ癖がある」
と笑った。
父は若い頃、外国の農場へ行きたかった。
祖父に反対され、家へ残ったという。
息子は初めて聞いた。
「後悔してる?」
父は稲を掌へ載せた。
「行かなかったことはな。残ったことは、別に」
二つは同じではないらしい。
息子は、自分が音響の仕事をしたいことを話した。
農業とは関係がない。
父はしばらく黙り、
「機械の音なら、うちでも毎日鳴ってる」
と冗談を言った。
本心は分からない。
翻訳布で、同じ稲をもう一度包んだ。
種は一度しか答えない。
沈黙したままだった。
「種も、二回目は自分で決めろってことか」
父が言う。
息子は家を出た。
都会の小さな録音会社で働き、失敗ばかりした。
実家の田植えには毎年帰った。
継がないのに手伝うのは中途半端だと思ったが、父は何も言わなかった。
祖父の稲を少しだけ持ち出し、会社近くの共同菜園へ植えた。
水も風も違い、ほとんど育たなかった。
三本だけ穂が出た。
収穫した種を実家へ持ち帰る。
父は翻訳布に包んだ。
新しい種は言った。
「どちらでもない。次の雨の方」
父と息子は笑った。
家を継ぐとは、同じ場所へ根を下ろすことだけではなかった。
畑の音を録り、農機具の騒音を減らす仕事を息子が提案すると、父は渋々協力した。
翻訳布は破れ、もう種の声は聞こえない。
それでも播く前に、父と息子は風向きを見る。
種の希望を知るためではなく、自分たちが今年どちらへ進みたいか、口にするきっかけにするためだった。