空っぽのケースを運ぶ
二十九歳の堂本みのりは、捨てられないものを三つの箱に詰めていた。別れた恋人が置いていったマグカップ、資格を取るつもりで買った参考書、痩せたら着る予定のワンピース。引っ越しは一週間後なのに、箱の蓋は閉まらない。
残しておけば、いつかの自分が使うかもしれない。捨てれば、その可能性まで諦める気がした。新しい部屋は今より狭い。それでも荷物を減らすより、収納棚を買い足す計算をしていた。今回の引っ越しは、同棲を解消して初めて選んだ一人の部屋だった。本当は窓辺へ小さな机を置きたかったが、箱を全部運べばその場所も埋まる。それでも空いた床を見ると、置いていかれた事実まで広がる気がした。
商店街の端で、寺島ハルがチェロを弾いていた。大きな楽器の低音が、閉店後のシャッターを震わせる。通りの端に積まれた空箱まで、音を受けるたびかすかに鳴った。みのりは足元のケースへ硬貨を入れようとして、ケースが空であることに気づいた。演奏用のチェロは抱えているのに、もう一つ、古い空のケースが壁へ立てかけてある。
寺島が弓を止めた。
「空っぽは、重いですか」
「持てば分かるでしょう」
「では次の街灯まで運んで、重かったらそこへ置いてきてください」
知らない人のケースを運ぶ理由はない。だが寺島はもう演奏を再開している。みのりは取っ手を握った。見た目に反して軽く、歩くたび中で留め金だけが鳴った。街灯まで十数歩。空の容器を持って歩く自分は滑稽なのに、腕は楽だった。
戻ると、寺島は礼も説明もせず、ケースを受け取った。みのりの肩には、会社帰りの鞄が食い込んでいる。中には一年開いていない手帳と、念のための化粧品が六つ入っていた。
帰宅後、三つの箱を前に座った。未来の自分へ残す理由を考え始めると、また夜が終わる。みのりはマグカップを一つ手に取り、音を確かめるように指で弾いた。
乾いた音がした。彼女は「寄付」と書いた空の袋へ、そのマグカップを最初に入れた。