管理者権限を外す
砂川汐里の退職面談が終わった午後、上條蒔は社内チャットで拍手の絵文字を送った。
祝っているのか皮肉なのか、と汐里は聞かなかった。蒔は創業三年目のアプリ会社を信じている。給与が遅れても、夜中に障害対応があっても、自分たちのサービスは世の中を少し便利にすると言う。汐里は、便利さの代金を社員の睡眠で払う会社は続かないと言う。
二人の議論はいつも、ビジョンと勤怠表の間で終わった。
退職まで残り二日、汐里はアカウント整理をしていた。使っていない外部サービスの管理者権限を外し、引き継ぎ表へ記録する。そこで、顧客問い合わせ画面に本番環境へ入れる古い鍵が残っているのを見つけた。半年前に退職した業務委託者のものだった。
汐里は即時停止を提案した。蒔は一瞬ためらった。鍵を無効にすれば、夜の集計処理が止まる可能性がある。明日は投資家向けの数字を出す日だ。
代表からは、「今夜の処理後に対応」と返事が来た。
「私は明後日には関係ない」
汐里はそう言いながら、停止画面を閉じなかった。
「私は明後日も関係ある」
蒔はそう言いながら、代表の指示に従わなかった。
二人はまず集計処理を手動アカウントへ切り替え、監査ログを保存した。汐里が古い鍵を無効化し、蒔が影響範囲を確認する。外部からの不審な接続が三件見つかった。侵入と断定はできないが、見なかったことにもできない。
「公表したら資金調達、飛ぶかも」
「隠したら、あとで会社ごと飛ぶ」
「そういう言い方、嫌い」
「夢みたいな言い方よりはまし」
言い合いながら、二人は顧客への一次連絡文を作った。蒔は必要以上に不安をあおる表現を削り、汐里は曖昧な箇所へ発生時刻を入れた。どちらの文章でもない文面になった。
代表から電話が鳴ったが、蒔は出なかった。汐里も逃げるように席を立たなかった。
最後に管理画面を開き、古い権限がゼロになったことを確認する。汐里がスクリーンショットを保存し、蒔が監査フォルダへ移した。
拍手の絵文字は送らなかった。二人は同じ端末の前で、通知文の配信予約を「今すぐ」に変えた。