素麺の一束
夏の昼、匡章は素麺を一束だけ茹でる。
妻の依子を亡くしてから、二束では多く、一束では少し足りない。薬味を増やして補っている。
その日、隣家の小学生、澄麗が回覧板を持ってきた。両親が仕事で、昼は一人だという。
「素麺、食べるか」
「一束しかないんでしょう」
聞こえていたらしい。
棚の奥を探すと、半端な一束がもう一つあった。二人分には少ないが、茹でる。
氷水へ放ち、葱と生姜を刻む。澄麗は缶詰のみかんを持ってきて、器へ浮かべた。
「これは違うだろう」
「うちは入れるよ」
白い麺の間に橙色が揺れる。匡章は抵抗したが、食べてみると甘酸っぱさが悪くない。
依子は胡瓜を細く切って入れた。家庭ごとに、素麺には余計なものがあるらしい。
二人で食べると、少なめでもちょうどよかった。
翌週、匡章は素麺を三束買った。澄麗が来るとは限らない。それでもみかん缶も用意した。
昼前、隣から声がする。
「今日は胡瓜も持ってきた」
三人分のような具を二人で載せる。
風鈴の音を聞きながら、麺をすする。氷が溶け、つゆは少しずつ薄くなった。生姜、胡瓜、みかん。違う家の夏の匂いが、一つの鉢の上で冷たく混じった。
澄麗の両親が休みの日、今度は隣家へ招かれた。食卓には大皿の素麺と、みかん、胡瓜、錦糸卵、ハムまで並ぶ。匡章は、自分の家の一束がずいぶん簡素だったと知った。それでも澄麗は、生姜を多くした匡章のつゆが好きだと言う。夏の終わり、依子が使っていた硝子鉢を隣家へ貸した。返ってきた鉢にはみかんの甘い香りが残っている。洗って棚へ戻すと、二人分でも三人分でもない、誰かが来る余白が透明な底に見えた。
夏が終わる前、匡章は一束を半分に折って棚へ残した。来年、誰と食べるかは分からない。乾いた麺の袋には、胡瓜とみかんの冷たい香りがまだあるようだった。
棚の暗がりで細い麺は次の夏を待つ。匡章はみかん缶の期限も確かめ、同じ場所へ並べた。