緊急連絡先の二番目

夜間診療の待合室で、瑠衣は二年ぶりに絃の名前を呼んだ。

「どうしてここに?」

「病院から電話が来た。麦のマイクロチップ、緊急連絡先が俺のままだった」

 診察室の向こうで、共有していた猫が処置を受けている。飲み込んだ糸を内視鏡で取るらしい。診療終了まで四十分。二人は硬い長椅子に並ぶしかなかった。

「大丈夫だって」

 絃が言った。

「獣医でもないのに言わないで」

「ごめん」

 別れたとき、絃は「麦は瑠衣が飼って」とだけ言った。餌の皿も爪とぎも置いたまま、翌週には部屋を出た。猫を簡単に手放せる人を、もう信じられない。瑠衣が好きだと言えない理由は、それ一つだった。

「今まで電話、なかった?」

「病院からは初めて」

「私から」

「ないよ。ブロックされてたし」

 瑠衣は膝の上で手を組み直した。

「麦のこと、気にならなかった?」

「気になった」

「でも会いに来なかった」

「会わせてって言ったら、困ると思った」

「勝手に決めないで」

 診察室から器具の触れ合う音がした。瑠衣が立ち上がると、絃も立った。

「大丈夫」

 二度目は、瑠衣自身が言った。麦にではなく、絃に触れられそうになった自分へ。

 受付の女性が、追加費用の同意書を持ってきた。瑠衣が署名しようとすると、「保険適用後の残額です」と説明された。

「保険?」

 麦の保険は、別れた直後に解約したはずだった。

 受付が端末を確認する。「契約者は絃さんですね。二年前から継続されています」

 瑠衣は隣を見た。

「どういうこと」

「名義変更が間に合わなくて、そのまま払ってた」

「どうして言わなかったの」

「払う代わりに会わせろって言ってるみたいになるから」

 絃は財布を出したが、瑠衣は同意書を先に取った。

「お金の話じゃない」

「分かってる」

「分かってない。あなたが麦を捨てたと思ってた」

「飼える部屋を見つけられなかった。転居期限までに。だから瑠衣に頼るしかなかった」

「それを言えばよかった」

「言ったら、待ってくれた?」

 答えられなかった。あの頃の自分なら、絃のために無理をして、あとで恨んだかもしれない。

 診察室の扉が開いた。処置は成功し、麦は明朝帰れるという。

「大丈夫でしたよ」

 三度目は獣医師の声だった。

 会計後、瑠衣は受付に緊急連絡先の変更を頼んだ。自分の番号の下へ、削除するはずだった絃の番号をもう一度書く。

「二番目だから」

「うん」

「麦のため」

「うん」

 絃はそれ以上を求めなかった。

 瑠衣は病院を出る前、ブロックを解除した。麦のいない空のキャリーケースを二人で持ち、閉まる自動扉を並んでくぐった。