背景ぼかしの向こう側

早瀬琴音の部屋には、壁が一面しかなかった。

正確には、残りの壁を男性アイドル〈NEON BOYS〉の理玖が埋めていた。ポスター、写真、アクリルスタンド、ライブの銀テープ。会社のオンライン会議では必ず背景ぼかしを使い、白い壁だけの部屋に見せていた。長い在宅勤務で、返事のない部屋へ帰る日も、理玖の写真だけは変わらず笑っていた。棚を増やすたび生活は明るくなったのに、画面に映る自分だけは、何も好きではない人の部屋を借りているようだった。

月曜の朝、ソフト更新のせいでぼかしが突然外れた。

営業会議の画面に、理玖の笑顔が二十人分映り込む。誕生日用の王冠をかぶったアクリルスタンドまで、琴音の肩のすぐ横で鮮明に光った。カメラを切る一秒が、ライブのアンコールより長く感じられた。

「うわ、祭壇じゃん」

同僚の一言に、琴音はカメラを切った。顔が熱い。謝罪文を打っていると、企画の丹羽俊が自分の背景設定を外した。彼の後ろには鉄道模型が天井近くまで並んでいた。

続いてデザイナーの真壁沙都が、猫の写真だらけの壁を映す。部長の浦川は一瞬だけ目を丸くし、それから言った。

「背景品評会は後で。早瀬さん、先週の数字をお願いします」

笑いはそこで終わった。琴音はカメラを戻したが、ぼかしのボタンに指を置いたまま迷った。

「後ろ、うるさくないですか」

「数字が読めれば問題ないです」と浦川が答えた。

琴音はぼかさずに報告を始めた。途中、理玖のポスターが空調で少しめくれたが、誰も仕事を止めなかった。

会議後、丹羽からメッセージが来た。

〈人の好きなものを祭壇って呼んだの、よくなかった。俺の車両基地と同じだよな〉

琴音は笑って、〈理玖基地です〉と返した。

その夜、ポスターを外そうと用意していた収納筒を片づけた。代わりに、傾いていたアクリル棚を水平に直す。

翌日の会議でも背景ぼかしは使わなかった。画面の中で、仕事の琴音の肩越しに、好きなものに囲まれた琴音の暮らしが、普通の背景として映っていた。